藝術学関連学会連合
創立 第1回公開シンポジウム
「藝術の変貌/藝術学の展開」


写真

[参加者のコメント](50音順)
青木孝夫(広島芸術学会)
秋庭史典(美学会)
浅沼敬子(美学会)
金田晉(広島芸術学会)
黒川威人(日本デザイン学会)
齋藤稔(東北藝術文化学会)
増田金吾(美術科教育学会)
渡辺眞(意匠学会)



藝術学関連学会連合創立第1回公開シンポジウムへのコメント
青木孝夫(広島芸術学会)

 シンポジウム「藝術の変貌/藝術学の展開」は、今日、美学や藝術学に興味を寄せ、或いはその研究に従事するものなら誰もが抱かざるを得ない共有の問題意識を取り上げ、時宜を得た企画だった。おおよそ現在に至る30年の枠で、それぞれの学会(16学会中5学会から報告者)で問題となっている研究の対象や方法の変容について、単に拝聴するだけでなく、専攻を異にする自分が普段痛感し、また教育・研究の現場で直面する課題に照らして聞くことができ、有意義であった。
 写真論については研究の先端的かつ基本的状況を窺い知ることができたし、また舞踊論や美術史では、研究状況に加え報告者の抱える問題意識が展開されていた。デザイン論や音楽論では、欧米の研究や問題意識よりはむしろ日本の状況や学会の問題が取り上げられていた。
 いずれのパネリストも帰属する学会の代表であることを強く意識しており、各ジャンル内部に限定しての報告は充実していた。反面、今やその統一性や本質性が問われている「藝術」や藝術学の変貌を齎した事態について、ジャンルの枠を超えて問う根本的課題が取り残された憾がある。これはある意味、企画の前提する状況、議論の大枠であり、論議の焦点に据えられていない問題ではあった。しかしこれは変貌するアートの境界を問い、また生に根ざす知の眼界(また限界)が問われる、今後の藝術学の展開に期すべき、また資すべき課題の一つと思われる。この点を含め、今後、統一というより多様性をもって展開する藝術学の「連合」に期待するところ大であると実感されたシンポジウムであった。



藝術学関連学会連合創立第1回公開シンポジウムへのコメント
秋庭史典(美学会)

 どの分野であれ、先端的研究であればあるほど、従来の説からはずれて振舞う自己の研究対象とそれを捉えるべき研究方法の開発に悩まされ続けるものだ。シンポジウムは、芸術学もまた同じであることを示していた。
 写真/芸術をめぐる力学の変化に細心の注意を払い、「時差」という視点を取りいれた新たな写真史・写真論の提示(前川)、旧東独現代美術が問いかける複数のモダニズムの問題と美術史研究の可能性(宮下)、錯綜する現代に根拠ある「カタチ」論を展開することの難しさ(渡辺)、「複数の音楽」という音楽学研究者の常識といまだ近代的芸術観に囚われた外部とのずれ(増田)、舞踊専門家の身体崩壊後、素人の身体やサイボーグ身体が入り乱れるなか蠢く様々な身体技法の試み(外山)、いずれも多様性を認めて示唆に富む。
 その一方、質疑応答で研究者の社会的責任が問われたことは興味深い。「多様なのはいいとして、結局人間にとって芸術とは何なのか?」という問いに答えようとしなくてよいのだろうか? 文脈主義しかないというのが会場の大勢と見えたが、諸科学による芸術研究も含めれば、別の立場からの議論も可能と考える。



藝術学関連学会連合創立第1回公開シンポジウムへのコメント
浅沼敬子(美学会)

 今回参加して興味深かったのは、美学、美術史、意匠(デザイン)、音楽、舞踊の専門家がそれぞれに過去20−30年間に生じた芸術(学)の変容について報告しながら、その一方で、「近代」や「モダン」の概念と結びついたかつての単一的で規範的な「芸術」のあり方をも前提としていたことである。もちろんその扱い方は報告者によって異なる。たとえば美術史学会の宮下誠氏は規範的な美術史学の「西」洋中心主義を批判し、旧東側美術の魅力について語った。それに対して、たとえば日本音楽学会の増田聡氏の報告では、音楽の「近代」はすでに過去のもので、それがなお何らかのかたちで現在に受け継がれているという事態の方が問題となっているように思われた。現在の立場から過去の規範的な「芸術」観を再検証しようとする姿勢は前川修氏(美学会、写真(論)史)や外山紀久子氏(舞踊学会、舞踊)の報告にもあり、その意味では、かつての規範的「芸術」観が取りこぼしてきたさまざまな文化現象が検討対象に加えられるだけでなく、規範的「芸術」についての研究もむしろこれから新たな局面を迎えるのではないかと期待された(たとえば意匠学会の渡辺氏は、1980年代にデザインが社会学的視点から解釈されるようになったと報告しているが、なぜ特定の現象が規範化されたのかを明らかにするには美的観点のみならず政治・社会、文化の力学への視点が必要となる)。全体として、芸術関連諸学の昨今の動向に脱中心性や複数性といったいわゆる「ポストモダン」的な共通性が見られることが改めて確認されただけでなく、それらを括ってきた規範的「芸術」に対する新しい姿勢が示されたといえるのではないか。



学会連合第1歩に拍手
金田晉(広島芸術学会)

 まず藝術学関連学会連合の発足を喜びたい。参加学会それぞれの対象分野を見ると、芸術学誕生の1世紀前には予想もしなかった新ジャンルが20世紀には登場した。当座は東京中心の活動ということになろうが、やがて広島でもシンポジウムなり、なにかの学術的イヴェントなりが開かれて、本学会連合のパワーが地方に広がってゆくとよい。
 その創立記念の公開シンポジウムに参加して、芸術学の新しい傾向を覗くことができた。私としては、旧東ドイツ美術が西欧流モダニズムに提起した具象性の問題への論及が、フロアからの質問と合わせて興味があった。だが新しい世紀への100年を展望する方向を切り開こうとするエネルギーはというと、それがこれからの本連合の課題ということになるだろう。



シンポジウム「藝術の変貌/藝術学の展開」所感
黒川威人(日本デザイン学会)

 今回シンポジウムのオーガナイザーである佐々木健一氏の「藝術学関連学会連合の創立と藝術学の状況(レジュメ冒頭文)」によれば、「『藝術の終焉』とは、文字通り藝術がなくなるという意味ではなく、これまで正統とされて来た藝術の有り様が失効する、ということです.その変化は何よりも藝術と非藝術との境界の流動化として現れてきます.その際の『非藝術』としては、藝術とかけ離れたものよりも、藝術と近似、近接していてしかも藝術から差別の対象とされて来た活動が重要です.」とあり、各パネリストの発表はほぼその趣旨に沿ってなされたと言っていい.しかし、現実の社会は、そうした学者らの思いの遥か先を駈けていて、その距離は次第に引き離されつつあるというのが筆者の偽らざる感懐である。「近代の死」、「歴史の終わり」、「芸術の終焉」を叫ぶだけではそうした現代の状況を捉えることは不可能だ.最近の30年をターゲットとした「芸術の変貌」となれば、当然、マンガやアニメーション、メディア・アート等が俎上にのぼると考えて参加した人たちの期待は見事に裏切られたと言うべきだろう.今回、「ダンス快楽の復活」現象を説いた外山氏の発表だけが現代の若者の状況を突いていると感じた.



公開シンポジウム「藝術の変貌/藝術学の展開」についてのコメント
齋藤稔(東北藝術文化学会)

 第1回公開シンポジウム「藝術の変貌/藝術学の展開」は発足に適ったテーマで、総じて意義ある討論集会になったと考える。各専門分野が抱える今日的問題の一端を知る機会にもなった。美術の分野で美術史学会から宮下誠氏の発表は重要なトピックであり、喚起的内容であった。
 20世紀美術の中で西欧的モダニズムに拮抗する東独の特有の様式傾向がW.マットホイアー、B.ハイジヒ、W.テュプケらの創作で例示された。そこでは社会主義体制のもとで制約され、強制された苦難の状況の中で「芸術的な表現」、「自由への意思」の表象が示唆された。しかし「社会主義の実験室」における<不可思議な沈黙のコード>、そして「わかる」絵画という作用契機に関して、具象表現においても、抽象表現においても、最も知りたい東独独自の藝術創造の要諦が把握できなかった。けだし現代の状況に生きる人間の生存と社会の関わりを実存的な問題として藝術表現にもたらしたこと、これに関する洞察が欠けていたように思う。
 オーガナイザーがあらかじめ求めていた基本的な枠組みとして、その東独の藝術の変化に対応する研究方法の問題については触れられなかった。



「芸術学関連学会連合 創立第一回公開シンポジウム―芸術の変貌/芸術学の展開―」に参加して
増田金吾(美術科教育学会)

 この度の日本学術会議の組織替えに伴い、この芸術学研連と教育学研連の二つに係わる我が学会では対応を余儀なくされました。例の学会事務センター問題の処理を始め、こうした「動き」の影響を随分受けました。しかし、よくよく考えてみると、学会活動や研究活動を持続できるのは、様々な組織に支えられているからであるということです。普通に研究をしている時は、何とも思わないことが、いざことがあるとその有難みを知らされるという訳です。
 そんな状況下、このシンポジウムに参加させて頂きました。私の専門は、美術科教育学ですので、普段教育学の方に軸足を置いているのですが、芸術には大いに関係しています。今回、実に様々なテーマの発表に、正直どうなるのかなと思いつつも、少し距離のある立場から気楽に出席したのです。佐々木先生やパネリストの方々のお話を伺っている内に、これは面白いと思いました。何故面白いのか考えてみると、大学時代に聞いた美学の授業と違い先生方のお話が身近に感じられたからで、先生方の頭の中に、今までの繰り返しではいけない、何か創造的なことをしていかなければ、そして人に伝えなければ、という思いがあったからだと思いました。



シンポジウムに参加して
渡辺眞(意匠学会)

 人文系の学会全体とはいえないかもしれませんが、大衆消費社会での人文研究の困難さをあらためて確認したシンポジウムでした。価値基準の多様化、複数化を余儀なくされてきている状況が窺えましたが、個々のサブ・ジャンル内での価値の高低、質の高低が確保されているのであれば問題は少ないといえますが、この辺りのことがどうなのかもっと知りたかったことです。そもそも価値や質の高低を論議しえているのかどうか。
 デザインの世界では、製品の質を論議し、その理解が広まる間に、当の製品が姿を消すということが当たり前のように起こります。過去の製品の評価は、現在の製品の売れ行きを保証してはくれません。だから質の論議は現実的リアリティを持ち難くなっています。
 これは批評の現代的意義の問題にも関係しています。デザイン領域では批評が有効に機能しているとは思われません。他の領域ではどうなのでしょうか。