映像におけるオーサーシップの問題
――ヌーヴェルヴァーグから動画共有まで――

兼子 正勝(日本映像学会)

1. はじめに
 本稿では「映像におけるauthorship」について,フランス・ヌーヴェルヴァーグと現在のインターネット動画配信の事例を紹介しながら,問題を概観する.
 テーマを「映像における著作権」と設定しなかったのは意図的である.おそらく他の分野からの発表も同様の問題を扱うと思うが,ある制作物が「誰から生まれたか」あるいは「誰に帰属するか」という問題と,その制作物が流通する場合,流通から生まれる利益が「誰のものか」という問題は,当然密接に連関しあいながら,しかし完全には重ならない,ときには違った水準で考えられる問題だからである.
 映像(映画,TVなど)はもともと「産業」としての性格が非常に強い芸術分野である.映画の予算規模は数億円から数十億円.その制作にあたっては,企画段階から,シナリオ作成,演出,撮影,音楽,編集,さらには配給・配信まで,実にさまざまなスタッフが,さまざまな責任を分担して作業する.当然権利も入り組んでおり,映画のDVDなどによる再流通やTVの再放送にあたっては,あらためて権利者に許可を得たり権利料を払ったりすることが多い.
 現在映像に関して「著作権」の問題が熱心に問われているのは,インターネットなどのあたらしい流通形態が発生しているからである.問題は筆者の知る限り二つある.一つはYouTubeなど動画共有・動画投稿サイトによる動画の不正使用の問題である.もう一つは映画やTVの動画コンテンツをインターネットで配信する場合,法解釈によっては,ユーザーがアクセスするたびに放送番組の「再放送」と同じ事態が起こっていると見なされて,そのたびに著作権処理が必要になるということである.前者は非常によく指摘されるし,構図もわかりやすい.後者はあまり認識されていないが,業界と行政機関では熱心に議論されている.インターネット動画配信が重要性を増し,テレビ放送のデジタル化や,携帯電話でのワンセグ放送,家庭内PCの動画対応(保存,コピー,編集,配信)などが着々と進行している現在,映像(動画)をめぐる権利の問題は,非常に大きなものになっている.
 このような問題に対しては,当然立法的な解決や行政的な調整がおこなわれるだろうと期待される.しかし,現実的かつ状況対応的な解決・調整のまえに,それとは違う水準で,「そもそも映像とは誰のものか」というauthorshipをめぐる基本的な問いが立てられなければならないし,その問いに解を提出するかどうかは別にして,問いをめぐる経緯や現状について知識を整理しておくことは有益であろうと思う.

2. フランス・ヌーヴェルヴァーグと作家主義
 映像(映画)のauthorshipの問題が浮かび上がってきたのは1950年代フランスのヌーヴェルヴァーグにおいてであると言われている.もちろん50年代以前にもフランス以外にも優れた映像作家はいたわけだが,「映像には作者がいる」という意識が,集団的に,時代の意識として形成されたのがこの時期だということである.
 後にヌーヴェルヴァーグの呼称で呼ばれる作家たちは,50年代はじめは熱心な映画好きとして過ごしていた.彼らはシネクラブと称される映画上映会・同好会に集まり,むさぼるように映画を見,映画について白熱した議論をおこなっていた.その精神的指導者のような位置に,後にシネマテーク・フランセーズの所長になるアンリ・ラングロワらがいた.
 彼らはまもなく映画について「書き」はじめた.1953年に「カイエ・ド・シネマ」が創刊され,古いタイプの映画や映画作家たちを攻撃し,自分たちの好きな映画を擁護する激しい論陣を張り始めた.映画を「見る」ことからはじめ,「書く」ことに移った彼らが,数年後に「撮る」ことを始めたとき,それが「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれることになるのである.
 これが「ヌーヴェルヴァーグ」の揺籃期であるが,そのとき議論された重要なテーマに「作家主義」がある.
 たとえばトリュフォーは,「カイエ・ド・シネマ」誌1954年のヒッチコック特集号に次のように書く.

 一人の人間が30年にわたり50本ほどの映画を通し,悪と格闘するといういつもほとんど同じ物語を語りつづけ,その一直線の持続のなかで,同じスタイルを保持しつづけたとき,つまり登場人物から夾雑物をぬぐい去り情熱の抽象的世界に投げ込むことを規範とするやり方で主としてつくられたスタイルを保持しつづけたとき,そこには[映画という]この産業においては稀であるもの,つまり映画作家がいるのだということを,ついに認めざるをえないのではないかと思うのだ(Cahiers du Cinema, octobre 1954).

 比較的最近までわれわれはTVドラマの「作家」をかならずしも意識しなかったが,それと同じように1950年代は娯楽映画の「作家author」を意識しなかった.しかしヒッチコックは,たとえば文学におけるバルザックやゾラと同じ資格で「作家」なのだと,ヌーヴェルヴァーグは宣言した.これをトリュフォーたちは「作家主義」と呼んだ.原語は「la Politique des auteurs」である.映画の産業としての性格が強かった時代において「作家性を強調する政策・戦略」とでもいう意味である.この発想は,前世代のアンドレ・バザンやアレクサンドル・アストリュックにまでさかのぼることができるが,ともかくこれが映像において「authorship」が意識化された端緒である.
 しかしここで同時に強調しておかなければいけないことがある.それは,ヌーヴェルヴァーグにおける「作家主義」あるいは「authorship」の考え方は,必ずしも「権利」や「所有」の発想に結びつかないということである.むしろフランス・ヌーヴェルヴァーグは,映画の歴史のうえでもっとも「所有」に無頓着であり,ときには「共有」に近い発想をした作家集団であった.
 以下に箇条書きにしていくつかの事例を挙げる.

1) 映像やシナリオの使い回し
 ゴダール:「水の話」(1958)――トリュフォーが撮影したフィルムをゴダールがストーリーをつけて再編集した
 ゴダール:「勝手にしやがれ」(1959)――トリュフォーの原案をゴダールがシナリオ化
2) 引用・相互言及
 トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959)の登場人物たちはジャック・リヴェットの「パリはわれらのもの」(1960)を見に行く
 ゴダールの「女と男のいる舗道」(1962)の主人公,ドライエル「裁かるるジャンヌ」(1928)を見て涙を流す
3) 映像の共有
 ゴダール「映画史」(1989-98)――無数の映画を静止画・動画で引用,比較.ある種の動画データベース.著作権侵害の可能性もあった.

3. インターネット動画配信とauthorship
 つぎに現代の動画視聴に大きな役割を果たしているインターネット動画配信について考える.インターネット動画配信は,作者のあり方と権利処理の方法によって,大きく二つのタイプに分かれる.

1) 少数の作者がつくった著作権を伴う動画を,著作権処理をしたうえで配信する ―― Gyaoや第二日本テレビをはじめとする一般の動画配信サイト
2) 多数の作者がつくり著作権を放棄した(とみなされる)動画を,著作権処理をしないで配信する ―― YouTube及び類似サイト

 導入ですでに触れたように,現状ではこのそれぞれに大きな問題が存在している.1)に関しては,動画の著作権処理が複雑であるために,魅力的なコンテンツを多く用意することが難しいとう問題がある.一般にTV局や映画会社が持つ既存のコンテンツは,少数回の配信・興業・複製等を想定して権利設定をおこなっていて,それをインターネット動画配信にのせるためには再度権利処理をおこなわなければならないし,さらに,筆者の非専門的な知識の範囲で理解していることによると,一人のユーザーがアクセスして動画を視聴するたびに放送や興業と同じ事態が生じているとみなされて,そのたびに権利処理をおこなうことが法的には必要であり,したがって動画配信を想定して特別な著作権契約を締結したコンテンツ以外は,通常動画配信サイトに置くことができないようである.
 2)に関する問題はよく知られている.YouTubeの動画は,一般ユーザーがつくって公開を前提に投稿したものだと想定されていて,だから特別の著作権処理をしない設定になっているのだが,実際にはユーザーがTVやビデオからキャプチャーした動画を投稿していることが多く,当然これは著作権の侵害になる.著作権を侵害した動画がある場合,著作権者のほうは当然その動画の削除を求めるが,最近では,著作権者が宣伝効果を期待して,不正な動画を許容したり,場合によってはみずから新作の一部を予告編的に投稿したりすることもある.また,ユーザーがキャプチャーして動画を持つこと自体を規制しようとする法整備の動きもある.
 これが現状だが,筆者はじつはこの二つの問題を,あるいはこの二つの動画配信形態そのものを「過渡的な」ものだと考えている.インターネットでの利用実績がもっとも長い「テキスト情報」は,次のような利用形態の変遷を経ている.

1) 少数の権利者が保有するテキスト情報の,有料での提供 ―― インターネット初期の雑誌記事データベース,検索サービスなど
2) 多数のユーザーがつくったテキスト情報の,無料での提供 ―― 通常のwebページ
3) ネットワーク上に存在する膨大なテキスト情報の,利用方法の提供 ―― googleなど

 非常に大まかに言ってしまえば,前記のGyaoは1)の段階であり,YouTubeは2)の段階である.論理的に言って,ネットワーク上に多くの動画が置かれたあとでは,その動画をどう利用するか ―― どう検索するか,どうリンクするか,付加価値のある利用形態は何か ―― が問われるはずであり,動画のgoogleのようなものをつくろうと,google自身も含めて多くの企業・研究者が狙っている.
 発表では事例として,筆者の研究室で開発した動画配信コンテンツシステム「MovieComics」を紹介する.これは,webブラウザ上に「漫画」のように「コマ割り」されたページが置かれていて,そのコマの一つ一つがストリーミング配信による動画が割り振られているというものである.制作するのは動画制御のスクリプトだけで,動画そのものは原理的にはインターネット上の任意の動画を使うことができる.

4. ヌーヴェルヴァーグふたたび,及びまとめ
 インターネット上に無数の動画が存在することを最初から前提として,そのうえで,それを見いだし組み合わせ使うことの工夫から,あたらしい価値やあたらしい知が生まれるということ.動画のgoogleであり動画のwikiであるこのような展望は,じつはヌーヴェルヴァーグにおいてすでに素描が描かれていたと解釈することもできる.
 ゴダールの「映画史」は映画のwikiでなくて何なのか.「映画史」は,歴史上存在したすべての画像・映像をデータベースのように持っている状態で,それらを比較し,批判し,あたらしい関係を,つまりは知を生み出そうとした.ゴダールは映像のデータベースとしてビデオテープしか持たず,比較の手段としてビデオ編集しか持たなかったが,インターネットが巨大な動画データベースになれば,無数のユーザーが自分の「映画史」をつくることができるのだ.
 ヌーヴェルヴァーグはauthorshipを強烈に主張しながら,同時に作品のある種の共有を雰囲気として持っていた.作品を「つくった」のは私であり彼である.しかし,それを「所有する」のは私だけでも彼だけでもなく,同時に存在したわたしたちや,これから来るあなたたちでもある.そのヌーヴェルヴァーグ的雰囲気は,インターネットによってはじめて実現するかもしれないのだ.



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