絵画の制作と受容
.――近代以前の源氏物語絵を中心に――

仲町 啓子(美術史学会)


写真  アナログ時代の静止画を素材に「インタラクティビティ」を考えることは、一見無謀なことのようにも見えるが、藝術活動における相互作用性を問う場で、「一方的かつ受動的な鑑賞行為が肥大化した近代」に対するひとつの問題提起として、ここで近代以前の状況を確認しておくことにも意義はあるだろう。
 近代以前の作品は一般的に注文主等の統制下で制作されたが、ここで取り上げるのはそのような特定の人と作品の関係ではなく、一定の集団あるいはコミュニティで生み出された版画作品の状況である。具体的には『源氏物語』をテーマとする浮世絵を扱う。江戸時代の浮世絵風源氏物語絵が、原典である『源氏物語』テクストとの対応関係やその再解釈によって構想されることは皆無であった。浮世絵風源氏物語絵で問題となるのは、原典(この場合多くは『源氏物語』ではなく、源氏物語絵を通じて享受された『源氏物語』)をいかに浮世絵風に翻案するかであり、それらはむしろ源氏物語絵を素材として生み出された新たな創造物であったと言っても過言ではない。浮世絵風源氏物語が『源氏物語』の初心者に向けての簡略な絵解きを目指したものであったと考えるのは正しくない。それらは『源氏物語』あるいは源氏物語絵に関して多少の知識を有している人々に向けて、「浮世絵化」そのものを示すことにねらいがあった。次々と考案された浮世絵風源氏物語絵に見られる新趣向を促した最も大きな要因こそ、新たな享受層の文化的興味や遊戯的関心であった。しかも生産・消費の現場では一方向的な制作→鑑賞の関係ではなく、意外性・諧謔性などを契機として制作者―受容者の相互的な参画(あるいは合意)があり、両者はいわば創作共同体のような性格を帯びていた。源氏物語絵のコードを共有することを前提として、江戸という都市の住民の間で、主として木版画という媒体を用いて繰り広げられた浮世絵風源氏物語絵の作例を追いながら、文化的営為としての制作―受容の相互作用性について考える。
 
 取り上げる作例は下記の通りである。
 菱川師宣(?-1694)「柏木と女三宮」(『美人絵つくし』1683年刊)では、庭の公家装束の男性、猫、御簾から姿を現す女性などの図柄が、江戸初期に出版された版本(『おさな源氏』など)で親しまれていた「源氏物語絵 若菜上」の構図を連想させるいっぽう、量感を増した体躯で描かれた男と女の思わせぶりなポーズは、近世初期の遊楽風俗図に登場するカブキ者と遊女の記憶を呼び起し、取り澄ました源氏物語絵を男と女の「妖しい場面」へと転換させている。「菱川」印「柏木」(『源氏きゃしゃ枕』1676年刊)は、鞠、御簾、桜、盗み見などがそれとなく源氏物語絵のコードを連想させる、源氏物語絵のポルノ風パロディである。基本的に浮世絵風への翻案は、好色的・享楽的方向を目指すが、特に師宣らの初期浮世絵時代においては、「浮世」(遊廓や性風俗)への連想が強い。師宣はいっぽうで初心者向けの伝統的な源氏物語絵を普及版的な教養書に描いているので、浮世絵風源氏物語絵は知識のない人に対する当世ヴァージョンの絵解きではなく、むしろ伝統的な源氏物語絵のコードに対する若干の知識を有していた人々へ向けられた諧謔的遊戯であったと言える。師宣は浮世草子・浮世茶屋など当時流行していた「浮世」風を意図して演出し、雅な源氏物語絵が卑俗化されるおかしさと痛快さを享受者とともに楽しんでいたのである。
 18世紀初頭『源氏物語』の俗語訳が絵入りで出版され、より身近な言葉で『源氏物語』や源氏物語絵が享受できるようになると、古典を権威付けていたものが弱体化したことが主な原因となって、雅な図柄が卑俗化されるおかしさ、その落差を楽しむ傾向は後退してくる。そこでは知悉した源氏物語絵の構図を当世風俗描写に転用する機知的趣向のほうを重要視するようになる。奥村政信(1686-1764)「浮世源氏須磨」は、流謫の侘び住まいの構図を閑雅な別荘風の建物での趣味的・遊興的生活の描写に応用し、同じく政信の「夕かほのやど」や「源氏夕かほ」では、源氏物語絵の構図を、遊里図の「文使い」に準じた「扇使い」にすり替える。これらでは源氏物語絵の構図は、当世生活を美化する機能を有していた。「女三のおふく」の諧謔性や「源氏浮舟」の抒情性は、俳諧などを通じて相応の教養や諧謔的な感覚を身につけた江戸の享受者たちに訴えるものであった。後者には俳諧そのものも添えられている。両図が表すユーモアは、集団文芸である俳諧の社交性に近いものであったと言えよう。
 鈴木春信(?-1770)「見立夕顔図」は、明和3年(1766)の絵暦として作られたものである。明和2,3年、江戸に住む旗本や大商人らが中心となって繰り広げた絵暦交換会をきっかけに、多くの版画技法が開発され、多様な文学的なテーマが考案された。制作者と享受者とが一体となったこうした環境が、源氏物語絵の構図を下敷きにした浪漫的な当世風俗図であるこの「見立夕顔図」が生み出される重要な契機であった。同じく春信の「鞠に興じる人」は、柏木を思い起こさせる蹴鞠をする当世風の若い男(男娼かもしれない)に女三宮に関連した歌を添えたもので、源氏物語絵のコードや歌を心得た鑑賞者なら、一見何の変哲もない風俗図に『源氏物語』から連想する何らかのストーリーが読み込める仕組みとなっている。
 春信の「若菜を摘む女性たち」と「やつし源氏末摘花」、及び磯田湖龍斎(1735-?)の「風流畧源氏 柏木」は、『源氏物語』の歌に詠まれたモチーフや言葉をもとに作り出された当世風俗図である。ここでは源氏物語絵のコード(構図や図柄)自体への興味はほとんど消滅している。注目すべきはこれらの題名に「やつし」「畧」が登場している点である。日本文学研究者を中心に近年、日本美術史における「見立」の語の使用に異議が唱えられ、「古典的な画題を当世風に描いたものを『やつし』、あるものをまったく異なった他のものになぞらえる操作を『見立』と呼ぶべきである」という主張が出されたが、こうした辞書の定義を歴史的な事象に安易に適用するのは危険である。右に見た「やつし」と題した作品の特徴は、単に古典的な画題を当世風に描いただけではない。それまでの師宣や政信が、伝統的な源氏物語絵のいわば視覚的な記憶をたよりに造形的な操作を行うのに対して、「やつし」は伝統的な構図に依存することなく、むしろその記憶の断絶を目論むのである。そこでは鑑賞者の意表を突いた発想の転換、あるいは謎解きが必要であった。造形的と言うより言葉遊びに近い操作と言えよう。その意味で春信や湖龍斎の「やつし」が狙う諧謔性や機知の質は、意外と当時の「見立絵本」などで使われた「見立」と近いように思われる。「やつし」「見立」は、時代を超えた抽象的な概念としてではなく、特定の時代・文化を語る歴史的な用語として捉えるべきである。伝統的な構図を踏まえた浮世絵化が極端に後退するいっぽうで、「やつし」といった知的操作や諧謔性が好まれて来た背景には、18世紀中葉の江戸の市井文化の動向があり、そうした享受者側の変化が、源氏物語絵の浮世絵化に新たな「趣向」を要求していったのである。浮世絵に見るテンポの速い様式展開も、制作者と享受者がともに当世風の諧謔性に鋭敏に反応して行った証左とも言える。以上、浮世絵風源氏物語絵の特色とそれらが生み出される契機・状況について、わずかな例で、しかも至極簡略ながら、相互作用性の視点から考察を試みた。



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