装置あるいは仕掛けとしての芸術作品

山口 良臣(意匠学会)


写真  私はこれまでに、装置あるいは仕掛けそのもとしか考えられないようなものを作品として発表したことが、少なくとも二回ある。一回は1980年に京都市美術館で開催されたビデオ・アートの展覧会で、ビデオ・カメラ二台と映像を合成する機器、モニター二台を据えつけた。向かい合わせに置かれた二台のカメラの間に観客が入り込むと、観客は二台のカメラでとらえられ、合成された自身の像を、両横に置かれたモニターで見ることができる。観客は、自身がどのように映っているかを見ながら自由に動き回るだけで、あらかじめ用意された映像があるわけではない。当時のビデオ・アートを取り巻く状況は、フィルムでできることはビデオを使うべきではない、ビデオはビデオ独自の表現でなければならないといった考え方が支配的だった。私も、自身が映った像を見ながら、つまりはカメラの視点を自身の視点に代えて、なんらかの行為を行い、カメラ、自身、モニターが作り出す閉じた回路でのフィードバックによる映像の生成というようなことを考えていた。
 もう一回は、2005年の代官山インスタレーションで発表したものだが、ボイス・レコーダーと赤外線センサーを組み合わせた装置10器を公園の入口に並べた。ボタンを押しながらしゃべるとその声が録音され、人が装置の前を通るとその声が再生される。音の伝言板といったもので、普段は遊び場になっていない公園の入口を子供達の遊び場にし、子供達が去った後には、その名残が聴けるといったことを意図していた。
 京都市美術館での発表は、テレビやビデオなどが作り出す電子的な環境といったことも考えていたような気がするが、装置や仕掛けという意識はなかった。代官山では初めから、装置そのものを仕掛けとして設置することを考えていた。芸術作品とは、人が芸術的体験と感じられるような体験をもたらすことを意図して制作されたモノ、あるいは組織されたコトだとすれば、芸術作品とは装置あるいは仕掛けと考えられるのではないか?それだったら、装置そのものが芸術作品でもかまわないではないかと、そんなことを考えていた。
 もっとも、絵画でもトロンプ・ルイユのように、人の目を欺くことを目的にしたものや、デュシャンの便器、ジョン・ケージの「4分33秒」なら、装置や仕掛けと呼んでもかまわないような気もするが、普通の絵画や彫刻までそう呼べるかというと、ちょっと考え込んでしまう。車に塗ったジャムを女性達が舐めるアラン・カプローのハプニング(Household, women licking jam off a car/1964)の写真を眺めながら、もし私がその場にいたならと想像してみたのだが、生身の女性達の存在感に圧倒されてしまいそうで、やはり、そのハプニングを装置や仕掛けと呼ぶのはためらわれる。
 では、その女性達にとって、そのハプニングとはなんだったのだろうかと考え直してみた。女性達にとって、ジャムを塗られた車や、あらかじめ知らされていたであろうその意図や指示は装置あるいは仕掛けではなかったのか。古い資料を押し入れの底から探し出して、関係のありそうな所を拾ってみた。「観客は完全に排除されるべきだ。」「ハプニングの場での活動しない人々の一群は、全くのデッド・スペースだ。」「座席に座った観客の感情的な反応のためのハプニングは、ハプニングではなく舞台演劇だ。」「それは、前もって十分に討論し、全体のシナリオやスコアを書くことで果たされる。パレードやフットボール、結婚式や宗教的な礼拝と同じことだ。」(Allan Kaprow / Assemblage, Environments & Happenings /1966)カプローにとってハプニングとは、見るものではなく、参加するものだった。
 普通に鑑賞と呼ばれる事態を反省的にとらえ返してみれば、近づいたり離れたり、横に回ってみたりと、作品に対して能動的に働きかけ、体験が積み上がっていくわけで、鑑賞もまた参加に違いはない。作品と呼ばれるモノやコト、それ自体の問題ではなく、それに対する関係の問題と考えれば、作品を、そのような行為を促す装置や仕掛けと考えてもかまわないのではないかということになってくる。しかし、いかに能動的な営みであるとしても、絵画や彫刻を前にして、人は多くの場合、やはり受動的な体験と感じることだろう。その働きかけは、その作品をより深く受容したいという欲求に基づくもので、創造に参加するという意識からは遠いように思える。
 ハプニングの参加者の体験を、カプローが意図したことの受容と考えることもできるが、参加者にとっては創造的な体験だったのではないだろうか。何よりも、彼女たちは観客ではなかった。観客自身の意識が受容者から参加者に変われば、芸術作品を装置や仕掛けとみなすことができるだろう。もっとも、機械仕掛けの作品はいくらでもあるわけで、参加者の意識にかかわらず、それらもまた装置に違いはない。
 装置や仕掛けに対して、観客自身の意識が受容者から参加者に変わったとしても、それだけで、それが芸術作品とみなされるわけではない。では、それが芸術作品とみなされる条件とは、なにか?日常的な装置や仕掛けが、そのままで芸術作品とみなされるとは考えにくいし、日常的な用途のために日常的な使われ方をする限りでは、それを芸術的な体験と感じることも考えにくい。それでも、日常的な物品が、日常的な場に置かれたままであっても、何かの加減で、それが芸術と感じられることもあり得ないわけではない。
 芸術とは何かと問うたところで、明確な答えが見つかるわけでもなく、それなら人は何を芸術とみなすのかと問い直したところで、やはり、確定的な答えが見つかるわけでもない。まあ、心理的なものか、概念的なものかはともかくとして、直接なにかの役に立つとも思えないが、なぜか心がふるえるなんらかの体験をもたらすものといったところだろうか?
 では、ゲームは芸術作品だろうか?碁でも将棋でも、あるいは麻雀でも双六でも、電子的なものでもかまわないが、どれも日常的な用途を離れて、心がふるえる。自分が指した手を、これはもう芸術だと感じることがあるかも知れないし、プロの対戦を見て、これはもうほとんど芸術だと感じることもあるだろう。それでも普通、ゲームは遊戯であって、芸術とはみなされにくい。バクチであれば、なおさらだ。
 どんなゲームにもルールはある。ルールがなければ、ゲームは成り立たない。ルールはインタラクティビティを制約し、ゲームの枠組みを決める。その枠内であれば、参加者は自由に振る舞える。ゲームは、まさに装置や仕掛けと考えられる。それが芸術とみなされないのは、おそらく、ゲームは参加性が強すぎるのだ。反省的にとらえ返せば、ゲームに参加することは、そのゲームが作り出す世界を体験し、その世界を作品のごとく受容することだと言うこともできるだろうが、参加性が強ければ、人は、その世界の住人になってしまう。
 ゲームが芸術とみなされようと、みなされまいと、どうでもよいことかもしれないが、人は芸術に何を求めるのか=人は何を芸術とみなすのかといった、政治的言説の問題ではある。ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」の中で、「・・・芸術生産における真正性の尺度がこうして無力になれば、その瞬間に、芸術の社会的機能は相対的に変革される。儀式を根拠とする代わりに、芸術は別の実践を、つまりは政治を、根拠とするようになる(野村修訳/多木浩二/ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読/岩波現代文庫)」と述べているが、ゲームを芸術とみなすのかどうかといったことも、結局は、同じ問題なのだ。装置や仕掛けが芸術作品とみなされるために求められるのは、おそらく、そこそこの参加性ということになるのではないだろうか。さらに、そこで求められる体験は、闘争的でもなく、熱くなりすぎるでもなく、観想とでもいったことになるのだろう。カラオケもスポーツも、普通は、芸術とはみなされない。
 芸術とみなされるかどうかはともかく、その体験がなにか特別なものと感じられるのは、モノやコトがいつもとは違ったありようをしているか、自身のありようがいつもとは違っているということだろう。デュシャンやマン・レイのオブジェは、日常的な物品でありながら、日常的なありようはしていない。モノやコトに対する人の関わり方を制限すれば、人のありようは変わる。たとえば茶の湯。人が集まって茶を飲む営みを極度に形式化し、インタラクティビティを制限することで、茶の湯が成立するのではないか?
 それでは、時計とポッキーを用意して、誰かに次の指示を出す。「ポッキー1本を食べ始めてから、ちょうど2分後に食べ終わること!」
 制限というほどではなくても、方向付けということも考えられる。たとえば、絵画と一緒に虫眼鏡を置いておく。人はどうするだろうか?美術館に展示された絵の横に虫眼鏡がぶら下がっていたら、鑑賞の形態は相当違ったものになるだろう。
 車に疵がつくと、修理の前にチョークで印をつけたりする。これと同じように、普段なら見過ごしてしまうような所に印をつければ、人は、その印を追って、なにかを読み取ろうとするだろう。印をつけるだけでも、関わり方は方向づけられる。決められたところしか見られないように固定した双眼鏡か望遠鏡を使うという手も考えられる。いつ、どの瞬間ということはないけれど、映画のようなものと言えなくもない。
 こんなことは、考え始めたらきりがない。
 これまで発表されてきた作品でも、考えてみればインタラクティビティが大きく関わっているというようなものも、少なくはないのだろう。耳を澄ますポイントに足形をプリントする、鈴木昭男さんの点音(おとだて)のシリーズも、明らかに、人のインタラクティビティを方向づけることで成り立っている。
 モノやコト、あるいは空間が、その本来のあり方を変えれば、人の体験も変わるわけで、必ずしもインタラクティビティの問題とは言えないにしても、インタラクティビティのありようが変われば、モノやコトは変わらなくても、体験は変わる。インタラクティビティの観点から作品のコンセプトを立てることは可能だろう。そこに新しい可能性が見つけ出せないだろうか?



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