コンテンポラリーダンス公演における
映像配信の果たす役割

石渕聡舞踊学会|大東文化大学/コンドルズ

舞踊および舞踊作品にとって、身体や時空間の様相は、それ自身を規定するような本質的な部分に関わる問題である。これまで舞踊の本質論は「生の身体」をもって「今−そこ」で行われる舞踊を考察の対象としてきた。観客の「生きられる体験」やその場で消えていく一回性を舞踊の固有性として、そこに生起する身体、時間−空間性等が分析されてきた。一方で、映像化された舞踊作品に関しては、少なからずその本来の舞踊の固有性を記録しきれない記録メディアとして位置づけられるにとどまっていた。しかしながら、2020年以降、新型ウィルス感染対策への対応として、無観客配信公演というカメラと映像とインターネット技術を用いた方法によって、舞踊作品の提示が行われている。このような動向に応じて、ここでは、舞踊の固有性を新しいメディアとの関わりにおいてあらためて検討することを目的とする。

配信公演の視聴のされ方にはリアルタイムの場合と、後からアーカイブを見るという二通りがある。両者の映像的な情報は同一であるとみなすことも可能であるが、一方で、生配信ということに何らかの価値を求めるならば、同時性ということは一つ挙げられる。すなわち、向こう側の配信カメラないしは端末のカメラとこちら側のパソコンのスクリーンの両側には演者と視聴者が同時に存在していて、両者は時間を共有しているということである。「配信、リアルタイムで観ました。」というような書き込みなどはそれをよく表している。

このように考えると、生配信のシステムそのものを巨大なオペラグラスとして位置付けることもできるかのようである。「今−(居合わせられない)そこ」で起こっていることをテクノロジーを利用して見るということである。しかしながら、少なくとも、現在の技術では、まだ見るものがあまりにも違いすぎる(現実の身体と映像の身体を比較するだけでも十分にその違いは明らかである)ことが、この考え方が妥当ではないことを示している。

また、先ほど示したように、アーカイブと呼ばれる配信後に残される配信された情報そのままを後から見ることができる場合、つまり、後から見ても、同じものを見ることとなる。一回性をその本質としているパフォーマンス作品が、配信では映画のように複製芸術化しているのである。それでは生配信の価値とは先ほど述べたような、演じ手と見手の同時存在ということだけなのであろうか。ここで時間の共有の価値を一旦は脇に置いて、生配信というアクションが向かうところを、「視聴者がいつ見るか」という時間の問題から、どのように作品が生成されているかという視点に捉え変えると、一つのシンプルな様相が明確となる。

配信側が単に劇場で舞踊作品を行う様を映像として提供することが目的であれば、撮影場所を劇場にした上で、撮影スタッフを充実させ、テレビや映画の撮影のようにシーンごとにカメラリハーサルを何度か行いつつ撮影を進め、演技内容も含めベストなテイクを編集して、カメラアクションと演技内容のクオリティの高い映像作品を生み出す方が、目的に適っているはずである。現にDVDなどで流通している数多のビデオダンス作品は、通常はそのようにして作られている。

また、一方で、観客が存在する実際の上演を映像化したものも少なからず存在している。これは舞台だけではなく、むしろ音楽のライブレコーディング等はより身近なものとして流通している。ダンスパフォーマンスのベクトルは客席の観客に向けられているので、舞台上で演者が観客に向けてパフォーマンスをする様を撮影するということになる。ただ、この場合、視聴者は「観客が観た舞台と同じ空間でカメラが記録したもの」を見るという状況である。すなわち、観客の体験レベルにある上演作品が収録されたものは、視聴者もこの映像が「誰かの」体験の再現であることを知っていて、作品は誰にとっても反省的なレベルに置かれることになる。

ところが、無観客公演は、客席に客がいない、つまり、パフォーマンスのベクトルが宙に浮いているような状態である。形式的には、観客の目の代替としての配信カメラのレンズが存在しているが、観客ではないので、レンズに対しては本来のパフォーマンスのベクトルは生じないと考える方が事実に近いであろう。ここで言う、パフォーマンスのベクトルとはやや印象に基づいた表現だが、演者の対観客意識の中には、リハーサルとは異なる緊張感やパワーが含まれている状態であることも加味している。配信カメラのレンズは観客そのものがいないので、その代替にさえもなり得ないのである。つまり、この無観客配信は、丁寧にテイクを重ねて、編集をしてハイクオリティな映像内容をもつのでもなく、上演が持つ演者と観客の相互の高まりを伝えるのでもない。それでは、生配信であることの価値とは何であろうか。

先ほど、シンプルな様相と触れておいたが、それは生配信される瞬間に、全ての人が見る映像ができているという事実である。つまり、舞台上で行われているダンスが「全ての人が同じ映像を見るというところ」にむかってそっくり変換されているということである。観客不在ということが、構造上、再現や反省的レベルを退けることになる。つまり、現実のダンスが映像へと表象されるプロセスを迎えることで作品完成となる。その意味では、無観客配信作品は表象的作品ともいえる。

そして、このような表象装置としての生配信の固有性とは、舞踊や舞台芸術の本質である一回性を再現可能な表象の中に封じ込めるシステムとして位置付けることができる。この一回性を再現可能な作品にするものとしては、例えば、音楽では、ライブレコーディングのように演奏会の収録(この段階は先ほどの再現や反省的作品としての上演収録と同レベル)ではなく、生演奏独特の勢いとかノリを出すために行われるレコーディングスタジオ での「一発録り」などがまさしく同じ意味を持っている。

先ほど、配信ではアーカイブによって映画同様複製芸術化していると述べたが、そうではなくて、映画になぞらえられるべきはモンタージュなどの編集手法が用いられているダンス映像作品であって、その中で緻密に構成的に作られる様相と、生配信の作品は、確実に存在様態が異なっている。

生配信は、舞踊にとっては、一旦保留していた時間性の問題も踏まえて作品性や身体、一回性など、本質的な問題と深く関わる事柄である。そして、この状況は舞踊芸術がカメラやインターネットというテクノロジーと関与して、何らかの変革をもたらされているものとして捉えることも十分に可能である。

藝術学関連学会連合事務局

大阪大学大学院文学研究科美学研究室

横道仁志 esthe{at}let.osaka-u.ac.jp