「事変」の美術 ― 先例としての日中戦争

河田明久美術史学会|千葉工業大学

千葉工業大の河田と申します。専門は日本の近代美術史で、昭和期のいわゆる「戦争美術」を主に研究しております。
そういう関係から、「戦争」という言葉にはもともと反応しやすいところはあるのですが、昨今のウクライナの状況を見聞きするにつけ、これは、これまでの自分の研究と無縁ではないというか、既視感のようなものをおぼえることがしばしばあります。つまり、このような戦争は昭和期の日本にもあったのではないか、ということです。
そこで、あれこれ考えるうちにやがて思い当たったのが、1937年から始まる中国との戦い、いわゆる「日中戦争」との類似でした。もっともこの場合、かつての日本に似ていると感じたのは、ウクライナ側の体験ではありません。そうではなくて、逆に現在の「ロシア」の置かれている状況が、どこか日中戦争を戦っていた当時の日本を思わせるのではないか、という意味で申し上げています。

「昭和の戦争」という場合、往々にして我々は、1937年の日中戦争勃発から、1945年の敗戦に至るすべての期間を十把ひとからげにとらえがちです。もちろん「政治」や「軍事」に関してはそういう側面もあるのですが、ひとたび「文化」に目を移せば、また別の側面が見えてきます。こと文化に関する限り、中国とだけ戦っていた「日中戦争」の段階と、連合国のすべてを敵に回して戦うことになった「太平洋戦争」の段階では、国内の環境は全く異なっていました。その「違い」を生み出していた最大の要因は、戦争の「目的」、ないしは「理念」というものの有無です。

結論から言えば、日中戦争は、総力戦でありながら明確な戦争理念をもたない奇妙な戦争でした。以下に列記するのはすべて日中戦争の特徴ですが、そのどれもが、私にはロシアの現状と重なって見えます。
まず一つ目は、他国に派兵して戦う、いわゆる「外征」であること。
二つ目に、当初の目論見に反して、戦いが長期化していること。
三つ目に、泥沼の戦況にもかかわらず、銃後の国内が安定を保っていること。
四つ目に、そうした事態を政府が「戦争」と見做したがらず、「戦争未満の状態」と呼び続けていること。
さらに五つ目として、これは、政府のそうした姿勢に起因するものか、その結果なのかはわかりませんが、戦いを「大きな物語」として描き出すための明確な戦争理念が、国民の間で共有されていないように見えること、があげられます。
というわけで、ここからは、日中戦争期の日本に話題をしぼります。
そもそも日中戦争が始まった当初、それがあのような大戦争になると予想した国民はほとんどいませんでした。20世紀の初頭から、若干の日本軍が中国大陸にいるのは当たり前でしたし、満州事変以来、日本と中国の関係が険悪になっていることも知られてはいましたが、既成事実としての「満州国」には日本人の入植が進み、局地的な紛争は紛争のまま終わるだろうというのが大方の観測でした。ところが、紛争は意に反して拡大、長期化し、二年目を迎えるころから、日本は本格的な「総力戦」を強いられることになります。しかし政府は公式にはそれを戦争とは認めず、あくまでも戦争未満の「事変」と呼び続けました。

軍隊だけでなく、国民生活のすべてを動員して戦う総力戦では、往々にして戦い方の濃度に応じた同心円のような心理空間が、国内にかたちづくられます。
戦い方の「色が濃い」のは当然、同心円の中心に位置する当事者の「兵士」ですが、総力戦である以上、兵士を取り巻く「国民」もまた戦っていなければなりません。とはいえ、自分もまた戦っていると胸を張れる国民はそう多くありません。こうして兵士の外側には、兵士の立場からの離れ具合に比例して、国民の多くが「やましさ」を募らせていくような、同心円状の社会心理が形成されることになります。
このような心理を抱えながら、それでもたいていの場合、多くの国民が戦争を「我が事」として引き受けられるのは、ふつう、総力戦のような巨大な国家事業では、それに見合うだけの「戦争理念」が用意されているからです。
国民全体で共有できるような理念さえあれば、兵士ではない一般の市民も、そちらを向いている身振りを示すことで、本当の意味では戦っていないことからくる兵士へのやましさをまぬかれることができます。ところが、局地的な紛争からずるずると拡大した日中戦争には、この明確な理念がありませんでした。

「美術」に関していえば、この理念の欠如は、自発的な従軍画家の大量発生という事態をもたらしました。
そもそも、このような状態では、一般の国民に許された戦争協力のあり方は、いかに自分が兵士のようであるか、兵士に近い存在であるのかをアピールすることでしかありません。しかも、兵士へと向かうこの同調圧力は、同心円の外側に行けば行くほど強くなります。しかるに、モダンアートの価値観では、長らく芸術家は俗世間の外、つまりこの同心円の一番外側に位置付けられてきました。当時の画家たちが、呼ばれもしない戦場へと我先に駆け付けた背景には、おそらくこのような事情があったと考えられます。日中戦争期の従軍画家を駆り立てていたのは「理念への共感」ではなく、むしろ「理念の欠如」からくる兵士への同調圧力でした。

しかしながら、ちょっと考えてもわかる通り、すでに映画もラジオもある時代に、報道の現場で「画家」にできることなど限られています。結局かれらにできるのは、戦争をテーマにして、行っただけのことはあると言わせるような「絵」を描くことだけでした。これが「戦争画」と呼ばれるものの発端となります。
ほどなくして、「戦争画家」の大量発生に目を付けた軍は、画家を選び、テーマを与えて公式の戦争画を描かせる企画を思いつきます。同じころ、メディアイベントにからめて販売部数の拡大を目論んでいた大新聞、具体的には「朝日新聞」が、そうした公式の戦争画を目玉に据えた大がかりな展覧会の開催に乗り出します。このような機運は「美術界」にも跳ね返って、専門家のあいだに「本格的な歴史画」としての戦争画をもとめる空気を醸成していきました。

そもそも、日本が芸術としての美術の考え方を西洋から学び始めた19世紀の後半は、その西洋において美術の前提が大きく移り変わっていく端境期に当たっていました。それまでのアカデミズムが、美術を一義的には知的な営みととらえ、その最も知的な形式として大画面の物語る絵画、いわゆる「歴史画」を尊んできたのに対し、このころから勢いを増し始めたモダンアートの芸術観では、美術の核心は知性ではなく感性にあると考えます。
端境期にアカデミズムとモダンアートの双方を眺め渡すところから出発した日本の近代美術は、ヨーロッパにおける前者の蓄積に圧倒されつつも、日々勢いづいていく後者の展開にまずは後れを取らぬよう、全力でこちらを追い続けるほかありませんでした。
このようにして、その発端で抱え込んだ「アカデミズムの欠落」の意識は、西洋美術の伝統に対する引け目となって、長らく画家や批評家の意識下にくすぶり続けていたように見えます。日中戦争の勃発にともない、戦争画、つまり「戦争を物語る絵」を描かざるを得ない画家が大量に発生しつつあった当時の状況は、そうしたコンプレックスを払拭するには、まさにうってつけの機会でした。

しかし結論から言えば、かれらが憧れたような「歴史画としての戦争画」は、少なくとも日中戦争期には生まれませんでした。その理由はまたしても、日中戦争の曖昧な性格にあります。
日中戦争期に、朝日新聞社が音頭を取って二度開催された大規模な戦争美術の展覧会、「聖戦美術展」の目玉は、陸軍からの委嘱で画家たちが描いた公式の戦争画でした。しかし公式戦争画に限らず、この時期に描かれた戦争画は概して、専門家を満足させる出来栄えではありませんでした。
批評家の荒城季夫は、「単なる戦場スケッチの引き伸ばしなど戦争画ではない」と言い、西洋美術史の研究者で批評家としても知られた兒島喜久雄は、「戦争画のドラマチックな演出に欠かせない流血や死体が描かれていないのは物足りない」と不満を漏らします。
かれらが期待していたのは、たとえば有名なドラクロワの、戦う人々をモニュメンタルに描き出した《民衆を率いる自由》のような作品であったのかもしれません。
しかし、冷静に考えてみればわかることですが、こういうむごたらしい場面がそれでも見るに堪えるのは、絵の中央に描かれた半裸の女性が、「これは自由に導かれてフランスに共和制を取り戻す正義の戦いだ」と、見る者に教えてくれているからです。その証拠に、絵から彼女の姿を消してみると、とたんに画面は見るに堪えない修羅場に変わることがわかります。
比喩的に言えば、日中戦争期の画家たちが描こうとしていたのは、理念を持たないこのような戦争でした。流血も死体も現実には存在するし、それを描く手腕も無い訳ではない。ただ、無かったのは、そのような流血や死体を「意味あるもの」として「読ませる」ための社会的な文脈、つまり戦争の理念でした。
理念さえあれば戦争は「物語」になりますし、戦争という物語の中ではつねに、「善玉」と「悪玉」の色分けは明快です。そしてそういう善玉や悪玉であれば、絵の中で血を流すことも、死体となって転がることも可能でした。なぜなら、それらは「尊い犠牲」、あるいは「当然の報い」として読めるからです。ところが、「物語“未満”」の日中戦争には、その善玉や悪玉が見当たりませんでした。

ですから、日中戦争期の戦争画には、悪玉であるはずの中国兵がほとんど登場しません。必然的に、描かれるのは「善玉“もどき”」の日本兵ばかりということになります。
とはいえ、悪玉をうまく措定できないような心理状態では、画家も、その絵を見る者も、完全なヒーローとしての日本兵をすんなりとは思い描くことができません。
日中戦争期の戦争画に登場する日本兵は、このように「後ろ姿」で描かれる場合が多いのですが、それもこのことと関係があります。背中を見せて奮闘する日本兵の描写は、それを眺める我々を兵士と同じ立場に巻き込むことで、絵の中のかれらが正面切って、芝居じみた、ヒロイックな演技をする余地を残さないからです。
また、後ろ姿のモチーフが持つこうした「寡黙」な性格は、当時の画家たちが直面していた社会的な制約に対しても有効でした。そもそもこちらを向いた人物像は、後ろを向いたそれよりも細やかに観察される傾向があります。その要請に応えて、画家が、こちらを向いた兵士の表情やしぐさ、いで立ちなどをこと細かに描けば、その細やかな完成度自体が、兵士たちを絵作りのための「素材」におとしめ、一段高い立場からかれらを自在に操っている画家の姿を見る者に連想させてしまう可能性があります。兵士ではない立場からの戦争協力が正当化しづらい当時の社会において、それはあまりにも危険なふるまいでした。

一方、善玉らしい善玉も、悪玉もなく、流血も死体も登場しない日中戦争期の戦争画にあって、それとは対照的にこれでもかというくらい頻繁に描かれたのが「日の丸」でした。思うに、この「日の丸」には、日中戦争期の戦場の絵を「戦争画」として流通させるための「品質保証ラベル」のような側面があります。日中戦争の主題を見て取った人が、見るなりそれを「日本の正義の戦い」だと受け止めるような環境であれば、画家は何もこれ見よがしにこのようなシンボルを描き添える必要はありません。
無くもがなの「日の丸」をつい描いてしまう画家の心理は、飛躍するようですが、当時の報道写真にしばしば見られる、占領地の中国人が手にする日本の国旗とも似ているように思えます。日本軍の占領下でくらすかれらが、手製の「日の丸」を掲げて日本軍を迎えているのは、何も日本軍を歓迎していたからではなく、かれらを見つめる日本軍の眼差しが「多様な解釈」に開かれてしまうことを恐れていたからにほかなりません。どのようにもとれる自分たちのことを、「日本軍を歓迎している中国人」という文脈でぜひ解釈してもらいたいという切実な思いが、この「日の丸」には込められています。いずれも、そのままでは読み取りようのない日中戦争に、なんとか文脈をあたえようとする苦肉の策という点が共通しています。

いま一度、日中戦争期の兵士それ自体に話を戻しましょう。彼らはまず表現の対象としてのヒーローではありませんでした。ヒーローをヒーローたらしめる物語がないのですから当然のことです。と同時に、ヒーローたり得ないがゆえに、「生身の彼ら」は、「理念の曖昧な日中戦争の意義を、かろうじて担いうる唯一の存在」でもありました。

たとえば、ヒーローでない彼らは死によって輝くことができません。しかし、その一方で国内には、日々苦闘を続ける彼らに対する、国を挙げてのいたわり、ないしは感謝のような感情がわだかまっていました。こうした感情のはけ口となっていたのが、戦地での苦闘の痕跡を身にまとい、内地に帰還した兵士たちに対する崇敬の姿勢です。
日中戦争期にも国民的な賞賛を勝ち得た兵士はいましたが、その賞賛はたいていの場合、彼らの「死」ではなく、困難な戦況からの超人的な「生還」に向けられていました。たとえば、敵機との空中衝突で片方の翼をもがれながら奇跡的な生還を果たしたとされる「樫村兵曹長」のエピソードはその一例です。この機体はその後、海軍のミュージアムである原宿の「海軍館」で展示され、天皇の天覧にも供されました。このような例は枚挙にいとまありません。同じく、空中戦での負傷で腕の自由を失った陸軍の福山大尉が、操縦桿に結わえ付けたハンカチを口で操って帰還したといういわくつきの戦闘機もまた、天皇の天覧に供されています。
前にも述べた通り、戦場から「苦闘の名残」を持ち帰ることに成功した彼らは、通り一遍の英雄であるだけでなく、日中戦争を価値づけることのできる唯一の特権的な存在でもありました。生還を果たした彼らの肉体や、苦闘の跡をとどめるその兵器類は、まごうことなき「戦争そのもの」の一部です。個々の戦いに意味を与えるさらに上位の物語が存在しない日中戦争において、それらは、戦闘の激しさを語ることで、かろうじて「戦争そのものの意義」に言及することのできる最上級のフェティッシュ、いわば「聖遺物」でした。

このような「聖遺物」を前に、日中戦争期の「表現者」たちは立ちすくんでいたように見えます。
たとえば、前述の福山機が展覧に供される場面をとらえた報道写真で興味深いのは、額縁に収めて福山機の右隣に設置された向井潤吉による絵画作品が、一個の作品として鑑賞されるのではなく、あたかも福山機のエピソードを語るための解説パネルのような立場に据え置かれていることです。これは極端な例かもしれませんが、日中戦争期の画家、というか、日中戦争の主題に取り組もうとする当時の表現者の立ち位置を、端的に示す光景ではあります。
同様の「限界」は、彫刻家の清水多嘉示が1940年に発表した母子像にも見て取ることができます。作者によれば、これは戦地から兵士たちが持ち帰った「千人針」を収めるためにいつの日か建設されるであろう、まだ見ぬ記念堂の一部という構想でした。ここでも意味の中心は作品ではなく、作品が荘厳する「聖遺物」にあったことがわかります。
理念の曖昧な日中戦争をテーマとする限り、その意義にかろうじて言及できるのは戦争そのものの物理的なカケラ、つまり「聖遺物」であって、戦争の「表象」それ自体に芸術作品としての聖性が宿ることなどあり得ない、というのが、当時の表現者たちの醒めた認識でした。

ちなみに、このような八方ふさがりの状況は、1941年末の「太平洋戦争」の勃発によって一変することになります。
政治的な内実はさておき、連合国のすべてを敵に回して始まった新たな太平洋戦争は、アジアに植民地を展開してきた欧米諸国を「悪玉」と名指すことで、それまでの日中戦争とこれから始まる戦いの全体を「アジア人によるアジア」を取り戻すための「正義の戦い」と呼ぶことを可能にしていました。国民の多くが、緒戦の勝利を知らされる前から大いに沸き立ったのは、この新たな戦争が、明快な善・悪二元論を押し立てることで、戦争に「意義」を与えていたからにほかなりません。
戦争のテーマに取り組もうとする表現者にとって、これは決定的な変化でした。とりわけ重要なのは、戦争を傍観者の立場から表現する「自由」が生まれたことです。
真珠湾攻撃から一周年にあたる1942年末の「大東亜戦争美術展」に向けて陸軍の公式戦争画《神兵パレンバンに降下す》を制作していた鶴田吾郎は、ある座談会で、「我々は画家なのだから、あくまでも画家として戦争に協力するのだ」と言い放っています。すでに戦争の理念が存在する以上、そちらを向いて画家が画家らしく丹念に戦争画をこしらえあげることもまた、兵士とは異なる、しかし立派な戦争協力のあり方でした。
理念とともに浮上した「絵をこしらえる自由」は、作品の表情も劇的に変えることになります。同じ画家の、同じ公式戦争画でも、日中戦争期の「第一回聖戦美術展」(1939年)に戦う日本兵を後ろからとらえた《光華門丁字路》のような作品を並べていた中村研一が、太平洋戦争期の「第一回大東亜戦争美術展」(1942年)では、マレー半島に上陸する日本兵を正面からとらえた《コタ・バル》のような作品を描くことになります。我々の方へと向き直り、正面を向いて奮闘する《コタ・バル》の日本兵は、ドラクロワが《民衆を率いる自由》で描いた、見る者のほうへと押し寄せるパリの市民と同様、衒いなく「ヒーロー」として描かれていることがわかります。戦う正義の物語を描いたドラクロワの作品が本格的な歴史画であったとするなら、これもまた、たしかに、本格的な「歴史画としての戦争画」でした。

ちなみにご存じの通り、このあと日本の戦況はあっという間に優勢から劣勢に転じ、1945年夏の敗戦に向けて下降線をたどることになるのですが、それでも、ここで生じた戦争の理念というか、「物語」自体は、敗戦のその日まで健在でした。
戦争の末期に繰り返された「玉砕」を当時の軍が英雄的な美談として喧伝した事実は広く知られていますが、それを可能にしていたのも、日本兵を「善玉」に据えた太平洋戦争の物語です。そしてこの物語がある限り、画家が「絵をこしらえる自由」もまた、敗戦のその日まで健在でした。
最初の玉砕とされるアッツ島の玉砕を描いた《アッツ島玉砕》(1943年)のモチーフは、作者である藤田嗣治によれば、年来描いてみたかったという「チャンバラ」でした。そして、そのようにして描かれた当の作品は、展覧会場では、鑑賞というレベルを超えて、あたかもキリスト教絵画の殉教図のようにして拝まれていたといいます。つまり、戦争画はもはや聖遺物の解説パネルではなく、それ自体が価値、聖性を帯びた眼差しの対象でした。

画家の画家らしい振る舞いが、日中戦争期には指弾の対象となり、太平洋戦争期にはそれが打って変わって賞賛の対象となる。その違いのよってきたるところは、突き詰めて言えば、戦争それ自体の理念の有無にありました。
冒頭の問題に立ち返るなら、ウクライナ戦争における現在のロシアは、かつての日本になぞらえて言えば、いまだ理念を持たない「日中戦争の段階」にあるように見えます。ロシアの、とりわけ「文化」が 現状どのようであるのか、私はまったく知識を持ち合わせませんが、文化面での戦争協力の様子が声高に聞こえてこないところに、ロシアの現状が透けて見える気もします。ウクライナ戦争が文化の側面から語られるのは当分先のことかもしれませんが、その日に備え、まずは日本の過去を知る立場から、補助線の一つを提示しておきたいと思います。

藝術学関連学会連合事務局

大阪大学大学院文学研究科美学研究室

横道仁志 esthe{at}let.osaka-u.ac.jp