貫 成人(舞踊学会) 欧米の舞台舞踊の「起源」は「宮廷舞踊」とされており、そこで観客と演者の区別は原則としてなかった。ルイ14世治下においてそこに切断が生じ、以来、「プロセニアム」舞台における上演が基本となる。それにたいして「観客参加」を導入したのは1950〜70年代アメリカにおける「ハプニング」であり、あるいはダンスの訓練を受けていない者による上演を試みた「ポスト・モダンダンス」であった。その手法の残滓は現代のコンテンポラリーダンスにも見られる(T)。また、単独の作者によらない作品制作は古くから存在し、あるいは現在のコンテンポラリーダンス振付において主流をなしている(U)。一方、舞踊は、そもそも、観客の存在を関数としてはじめて作品が成立する“アート”であった(V)し、その点から現在の舞踊の特性を規定することも可能である(W)。メディアアートなどで言われる「インタラクティビティ」と共通の特性もあるかもしれない、こうしたメカニズムについて、以下、報告する。 I. 舞踊における観客参加 「作家」が単独で自己完結的作品を制作し、観客はそれを受動的に観照・鑑賞するという“古典的”モデルの逸脱例としては、(1)ダンサーが観客に「ものを売る」(『ヴィクトール』)、「家族写真を見せる」(『フェンスタープッツァー』)、「飲食物を配る」(『1980』『緑の大地』)、「腕をとって劇場外に連れ出す」(『ネルケン』)などピナ・バウシュ作品、観客の「お題」に答える(『エルドラド』)などコンドルズ作品に見られる「客いじり」、(2)観客が踊りに参加するバトシェバ舞踊団(『アナフェイズ』『テロファーザ』など)や珍しいキノコ舞踊団(『フリルミニ:ワイルド』など)の例、(3)密室で観客とダンサーが対面する「アンビエントダンス」(また、美加理やポカリン記憶舎)、(4)客席が存在せず、観客がパフォーマンス空間内を浮遊する(ラ・フーラ・デルス・バウス、伊藤キム、ノイズムなど)、などがある。だが、いずれも、作家(振付家)の想定内での「観客参加」であり、観客参加があってはじめて作品が完成するとは言えるが、その結果が作者の意図を超えることは滅多にない。 II. アーティスト同士の共同制作性 作品制作・上演過程において、(1)「物音で物語る」などの質問によってダンサーの個人的創意を引き出すバウシュ、「背中にこびと」などの指示によってダンサーの身体の変化を生む土方巽、ダンサーが互いの身体と重力との関係から動きを生成するコンタクトインプロビゼーション(スティーブ・パクストン)、設定だけを指示し、あとはダンサーの自発性に任せるシチュエーション・コレオグラフィーなど、また、(2)『白鳥』制作時、プティパの振付にあわせて楽譜を何度も書き直したチャイコフスキ、「collaboration at a distance」と言われたジョン・ケージとマース・カニングハムなど、振付家と作曲家や美術家などのコラボレーション、(3)日舞において三味線が、間をいつもより引き延ばす(高濱流光妙)など、上演における演者と舞手の「いき」、など、アーティスト同士の共同制作性は随処に見られる。 III. 舞踊のアプリオリ(成立可能条件)としての観客の存在 そもそも、舞踊作品が舞踊として成立するために、観客の参与は不可欠と言っていい。(1)クラシックバレエのダンサーは、あたかも重力の影響を受けず、質量をもたないかのようにジャンプし、回転する。「フォームによってマスの重力が否定される」(マイケル・レヴィン)のは「イリュージョン」であり、絵画などでもみられるこの現象は観者と舞台の「間」に成立する。(2)会話におけるうなずき(ウィリアム・コンドン)、ヤクザ映画を見たあと肩を怒らせて歩く観客、ダンス上演終了後にその動きをなぞっている観客、身体に力を入れてしまう相撲観客、DJのさまざまなテクニックなどには「引き込み」現象が見られる。引き込みとは、「動きなどの同期によって同調を生み、同期を外すことによって裏切りを生む」という回路であり、舞踊作品においても利用されている。(a)ベジャール『ボレロ』、井手茂大『井手孤独』においては、ダンサーが自分の身体に触れる、歩こうとして踏み出した足を降ろさない、など何気ない所作が大きな効果を生むが、ここでは、観客が視線によってダンサーに触れ/触れられ、呼吸や内臓・筋肉感覚に作用を受ける「taktiles Sehen」とよばれるメカニズムが利用されている。 (b) 身体運動系の移調(メルロ=ポンティ「物の内での超越」。舞台に人が登場したとき、方位や可動域があらわれる。cf.Garner)、同期とその裏切りによる幻影肢的反応、(c) 図と地の関係を崩すことによる空間全体の震動(月と雲。例、玉三郎『鷺娘』)、(d)リズム形成とその裏切り(身体的行為に想定される間合い。32回転、ジャンプ)、などがある。その狙いは、「観客とのあいだになにかを起こすこと」(伊藤千枝、矢内原美邦)、「Gefühl teilen」(バウシュ)にある。 IV . 舞踊における上の事情は、マイケル・フリードの「シアトリカリティ」批判(「芸術と客体性」)が逆説的に物語っている。シアトリカリティとは、作品の内的関係性による自己完結性が否定され、作品経験に観者の「身体的参加」「共犯性」が織り込まれる事態を指す。それを汲み尽くしたという限界が指し示されないため、その体験は無限であり、ジャンルの特性追求を否定し、観者なしには存立しえない不完全性を有するがゆえに、芸術の否定とされる。だが、Vのように考えれば、フリードが批判的に「シアトリカリティ」とよんだメカニズムが舞踊(少なくともコンテンポラリーダンス)のジャンル的特性かもしれない。 |