吉岡 洋(美学会) 芸術作品に関して「インタラクティヴィティ」ということが言われるとき、「作品」とその「受容者」「鑑賞者」との間に、何らかの「インタラクション(相互作用)」が生じていることが問題化されています。しかしそもそもこうしたとらえ方自体、ある前提の上に成り立っているといえます。というのもこうした言い方においては、「作品」に相対している主体があたりまえのように「鑑賞者」「受容者」と呼ばれているからです。いいかえればそこでは、芸術の経験という事態が、はじめから「鑑賞」や「受容」として理解されていることになります。このような前提のもとでは、主体の働きかけによって作品が変容するという局面を、根本的な仕方で考察することは困難だと思います。そこでは「インタラクティヴィティ」とは、何らかの例外的な、あるいは新奇な事態 ― たとえば、テクノロジーがこの時代において〈たまたま〉、そして〈外から〉芸術経験に介入してきたによって生じた結果 ― として記述されることになるからです。 「鑑賞」「受容」といった考え方は、その主体が相対している「作品」の存在様態と密接に関係しています。わたしたちは芸術作品の存在を、あたかも自明なものであるかのように語っています。けれどもそれは自明なことではありません。「作品」とはそもそも何なのでしょうか。とりあえず、作品とは「活きて作動している力(at work, energeia)」に対して、そうした活動の根底をなす何らかの「仕事(work, ergon)」として理解することができます。作品とは、〈はたらき〉が何らかの〈かたち〉として具現されているものです。作品のそうした〈かたち〉が依拠する領域にしたがって作品のあり方を区別してみると、 (1) イデアルな対象としての作品 (2) フィジカルな存在としての作品 (3) 情報(データ)としての作品 という3つの存在様態が、少なくもと考えられるのではないでしょうか。 「インタラクティヴィティ」というテーマは、これらの存在様態のうち、(3)が支配的になったことによって登場してきたのだと思います。多くの人々が作品を(3)として理解するようになったのは、いうまでもなく情報テクノロジーの普及によるものです。それは「情報」というものが、ひとつの世界理解のモデルとして浸透してきたということです。その意味で「インタラクティヴィティ」とは、きわめてアクチュアルなテーマだと言うことができます。 (1)について「インタラクティヴィティ」を問うことは不可能です。イデアルな対象として作品というのは、フッサールの言う「現象学的還元」を経てはじめて獲得される概念であり、通常の自然的な意味での「アクション」の働く領域にはありません。そこでは「作品」とは意識の働きによって構成されるものですから、ふつうの意味での「鑑賞」「受容」といったことも問題にはなりません。(1)について考えることはむしろ、「鑑賞」や「受容」、あるいは「インタラクティヴィティ」といったことが問題になるような世界それ自体の、成立根拠を問うことになります。これは重要な問いではありますが、時間をかけた集中的な思考を要求する論題であり、この報告では展開することができません。 今回の報告では、(3)と(2)について考えることにします。わたしは2000年以降、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)においてメディアアートの教育や展示企画に関わってきました。メディアアートの中には「インタラクティヴ・アート」と呼ばれるジャンルがあります。典型的なインタラクティヴ・アートとは、センサーとアクチュエータをコンビュータによって制御することにより、観客の何らかの振る舞いが作品の挙動に影響を与えるようなメカニズムを持つものです。しかし作品そのものは何らかのフィジカルな存在として提示されます。つまりインタラクティヴ・アートにおいては、(3)を通して(2)が経験されるという仕組みになっているわけです。インタラクティヴ・アートが成功するかどうかは、この(3)→(2)という関係づけがうまくいっているかどうかにかかっていると思います。 「情報」あるいは一般に「ヴァーチャル」と呼ばれる世界は、それ自体で自立しているわけではありません。1980-90年代まで影響力をもっていた「サイバーパンク」「サイバースペース」等々の概念は、あたかもヴァーチャルな領域が経験として自立可能であるかのようなイメージを生み出しました。現在では、そうしたイメージは一般に衰退しています。ヴァーチャルな経験はリアルな現実に組み込まれたものとして成立するという理解が拡大してきました。(『マトリックス』のような映画は、そのことの通俗的でシニカルな表現だと言えます。)この変化とともに、素朴な意味での「インタラクティヴィティ」に対する関心も薄れてきました。むしろ、情報技術が可能にするインタラクティヴィティを通して、フィジカルな現実を問題化するという方向に、アーティストの関心は向いてゆくと思います。 したがってこのような変わり目に「インタラクティヴィティ」を原理的に問い直してみることは意味があるでしょう。「インタラクティヴィティ」とは、とりあえずそれに対立する「受動的」で「一方向的」との対比を通して理解することができます。「受動的」で「一方向的」な経験とは、たとえば写真を観たり、映画やテレビを視聴したりするようなことです。それは複製テクノロジー、電子テクノロジーによってもたらされた経験です。それらによってはじめて、人は自分に働きかけようのない対象、つまり端的に記録された出来事、あるいは離れた場所で生じている出来事を、美的に経験するようになるからです。そうしたテクノロジー以前には、すべてがインタラクティヴであったというより、そもそも「インタラクティヴィティ」という問題が存在しなかった、という方が適切でしょう。テクノロジーこそが、経験の徹底的な受動性、一方向性をもたらしたのであり、それと同時に、まさにそのことによって、「インタラクティヴィティ」という課題をもたらしたのです。 デジタル情報、あるいはデジタル・データというのは、その本性からして自然的時間の影響を受けません。つまりそれは時と共に風化したり、摩滅することがありません。情報のこうした超時間性は、情報がつねに変化の可能性を含んでいることと対をなしています。作品とはなんらかの〈かたち〉であると言いましたが、その〈かたち〉を支えているのは作品のフィジカルな性質です。(2)つまりフィジカルな存在としての作品もまた、それを経験する主体の振る舞いによって変化します。たとえば伝統的な絵画でも、過去には加筆されたり修正されたりしました。あるいはそうでなくても、その鑑賞者が長い時間の中で示す行動によって、たとえば頻繁に展示され入念に修復されたり、逆に放っておかれたり破棄されたりすることによって、フィジカルな変化をこうむります。しかしそうした変化は、ふつう「インタラクティヴィティ」と呼ばれません。 「インタラクティヴィティ」という問題の正体とはなんでしょうか? それはよく言われるように、これまで「一方向的」であった美的経験が、テクノロジーのおかげでこれからは「双方向的」になる、といったことではないと思います(それではまるで「地デジ」の宣伝文句と同じです)。そうではなくて、わたしたちが作品を「デジタル情報」「データ」というモデルで理解するようになった結果、変化の「即時性」、「リアルタイム性」ということに直面するようになったことの結果です。リアルタイム性とは、たんに速度が増した、時間スケールが短くなったということではありません。むしろ、自然的時間が消滅したということです。言いかえれば、同じ時間スケール内部における速度の変化ではなくて、時間のスケールそれ自体が変容したということです。「インタラクティヴィティ」を問うことは、究極的にはわたしたちの経験する「時間」の本性を問うことになると考えています。 |