歴史においてアマチュアが果たしてきた役割について考えます。異なる芸術分野ごとの事情の違いに気づくとともに、歴史においてアマチュアがいかなる存在であったのかについて理解を深めます。
アマチュアをどう養成していくか、アマチュアはどう発生するか、プロ-アマの構図をどう見直していくのかといった問題点について議論します。各芸術分野がいま現在かかえている問題について比較検討をおこないます。
専門家集団である学会はアマチュアについて真剣に語ってきたでしょうか。現実においてプロはどれほどアマチュアと区別されるのでしょうか。芸術文化の根本にかかわる問題に切り込み、未来の芸術文化の担い手について考えます。
パネルディスカッション 鈴木・山﨑・石川・服部・舘野・秋庭・神野
アマチュアは芸術の重要な担い手である。
プロフェッショナルが「プロ」として活躍できるのは、アマチュアあってのことである。プロはアマチュアを教えることで教授料を得る。アマチュアはプロの公演の観客となり、作品の購買者となり、後援会の会員となる。アマチュアの中からは「通」や「目利き」として、「プロ」の芸を味わい、その価値について語る者もでてこよう。もちろん、「玄人はだし」のアマチュアはときにプロのパフォーマンスを凌ぐ。良いアマチュアがいない領域では、優れたプロは育たない。その一方「プロ」が成立しない芸術・芸能分野は、アマチュアによって担われるしかない。
このように見てくると、アマチュアの広がりは、そのまま文化という土壌の広がりでもある。もし日曜画家といった人々やアマチュア・オーケストラといった団体が消えていったとしたら、その領域は痩せ細っていくのではないだろうか。逆に、アマチュアがいない芸術分野は、「プロ」や「セミプロ」を存続させる仕組みを政治的に作らざるをえないかもしれない。
このような観点に立つとき、諸芸術におけるアマチュアという存在は重要な研究対象となりえると思われるが、しかしこれまで芸術学の領域でアマチュアは正当に評価されてきただろうか。もちろん、パトロンや市場という言葉のもと、社会との関わりにおいて芸術は論じられてきた。しかし、全体の傾向としてはどの芸術分野においても、どちらかと言えば名前のある芸術家の作家論や作品論が主要な研究テーマとなりがちであり、名も無いアマチュアの存在は等閑視されてきたのではないだろうか。
このことは「学(会)」という、研究者集団の成立・活動とも関わって来る。どの芸術家を論ずるに値する研究対象として取り上げ、誰を「アマチュア」として切り捨てるのか。そうした判断は何を根拠とし、誰によって行われるのか。「名も無いアマチュア」の活動を論じることは、それをどのように記述していくのかという単なる技術的な問題だけでなく、その「学」を成り立たせている前提や価値観を逆に問い直すことになりうる。それはさらに、学校教育や社会教育という、政治の問題にも繋がっている。
近年、インターネットの動画共有サイトに、プロもアマも動画を投稿するようになった。このようなサイトにおいては「プロ」と「アマ」の境界だけでなく、諸芸術の境界も曖昧となる。「ユーチューバー」が小学生(男子)の「将来なりたい職業」のトップ10にランクインしたことは、記憶にあたらしい。将来の芸術史・文化史の登場人物たち—パフォーマンス(成果)を論じられる側と、論じる側—は、こうした情報インフラに支えられたサイバー空間から現れよう。その人々は、かつて「万能人」〈ユニバーサルマン〉と呼ばれた人々にも似たマルチタレントな存在かもしれない。
近代が諸分野において「専門家」が成立していった時代だとすると、今後のアマチュアとプロはどのような関係になっていくのだろうか。そして、そうした関係によって担われる「芸術」を論じるべく、学術研究はどのような形態をとっていくのか。このような大きな問題に対する答えがすぐに見つかるわけではないが、考える機会はあっていいと思われる。
哲学者E・バークをして「いつの世にも輝かしい女性」と称賛された18世紀イギリスの夫人メアリー・ディラニーとその仲間らの展覧会が、2010年春ロンドンで開催された。 「ガーディアン」紙には「アマチュアリッシュ」と「ドメスティック・クラフツ」への再考を促すレヴューが掲載され、著書も編まれた。 その内容を紹介しつつ、生涯を通じ針仕事に拘泥し、ときの王室にも影響を与えた夫人の美意識について書簡を手がかりに報告する。[詳細]
山本鼎の農民美術運動は柳宗悦の民芸運動に先んじて大正時代に始まった。 その工芸作品と運動は地域における近代的な大衆文化と消費社会に沿うかたちで進展し、変化し、表現における通俗性、手仕事と機械加工の中庸性、運動における趣味性など、民芸の主要概念とは異なる性質を持った。 本発表ではそれらをアマチュアの性質として捉えたい。それは村の日常の中に留まり、労働において醸成され、農民たちを癒した芸術の姿である。[詳細]
昭和の時代に絶大な大衆的人気を得た貼り絵画家の山下清は、美術界からは徹底的に忌避され、その人気にもかかわらず(あるいはその人気ゆえに)アマチュア画家とみなされ続けた。 山下清の庇護者として知られた精神科医の式場隆三郎も、ファン・ゴッホをはじめとする膨大な美術評論を著したにもかかわらず(あるいはその膨大な論評ゆえに)正統な美術研究者とみなされることはなかった。 二人はなぜ、美術界の完全なアウトサイダー/アマチュアの域を出ることができなかったのだろうか。その歴史を検討する。[詳細]
歌舞伎は都市部のみならず、村落部においても村芝居として享受されてきた。 村芝居は一座を買ってくる買芝居(かいしばい)と、素人の住民がみずから演じる地芝居(じしばい)にわけることができる。 地芝居であっても、振付(演出)や音楽の演奏には、専門技術をもつ「プロ」が関わっていることが多い。「プロ」が担っている役割から、地芝居における「アマチュアの領分」を明らかにしたい。[詳細]
ポップカルチャーは、SNSの普及によるプロ/アマ境界流動化の最大の現場である。 本発表では、通常「ヤンキー文化」と結びつけて語られることの多い「よさこい系」祭りならびにそこでの踊りについて、ポップカルチャーとの関連から論じていく。 それにより、アマチュアの持続的生成と継承(ピークはとうに過ぎたと言われる「よさこい」系はなぜいまも続いているのか)、さらにはその学問による論じ方についても、新たな光を投げかけてみたい。[詳細]
西洋近代の影響のもとで成立した日本の「美術」はその様式的ヴァリエーションの再生産という性格を強く持つ場として発展したが、それらは現代ではむしろアマチュア的活動として位置づけられている。しかし普通教育としての美術はいまだにその影響下にあり、一般社会もまた同様の傾向にある。プロフェッショナルの要件が大きく変化し、あり様も多様化する現代において、アマ/プロの境界と内容をどう考えるべきかが問われている。
藝術学関連学会連合事務局
高安啓介 office{at}geiren.sakura.ne.jp