2009年秋から翌10年春にかけ,イェール・ブリティッシュ・アート・センターとサー・ジョン・ソーンズ・ミュージアムにおいて「ディラニー夫人とその仲間たち」展(Mrs. Delany and Her Circle)が開催された。Mary Granville Pendarves Delany(1700-1788)は,階層社会のトップクラスに生まれ育ち,個人の才能においても社会における知遇においても並外れた存在であったが,この一女性を取り上げた展覧会は世界初のことで,アマチュアやクラフツの評価に問題提起する野心的な企画としてリリースされた。 本報告では,これをめぐる論評や編まれた学術書,さらに夫人の書簡なども手がかりにディラニー夫人の日々の営為を捉え,「アマチュア」の価値の所在や見方について論じた。
2009年10月17日,「ガーディアン」紙の文化欄 ‘A Stitch in time’ にイギリスの歴史学者アマンダ・ヴィッカリーによる論評が掲載された。氏は,本展は「貶められた地位から女性のアマチュアリズムを救済するためのすばらしい試みである」とのべ,フェミニズム論を退け「アマチュア」と「ドメスティック・クラフツ」にたいし再考を促した。なぜならニードルワーク,ペーパーコラージュ,シェルワーク,ペーパーシルエットなど,いわゆるクラフツの範疇にある夫人のワークは多芸多才で,たとえアマチュアであってもその芸術的手腕が成し遂げる領域の広さと深さをあきらかに認識させるものであったからである。
10月22日には「ニューヨーク・タイムズ」紙にも記事が掲載された。「アートとボタニーが幸せに結ばれて,小さな愛らしい花弁が舞いあがる」とほのぼのした見出しの一方で,「18世紀英国の女性メアリー・ディラニーは『遅咲きの人』というフレーズがぴったりの人物」とも評された。その理由は,祖々父,祖父,父もそれぞれに名誉ある功績を遂げた尊家の第二子として誕生したにもかかわらず,若くして不運な結婚をし,かの女の人生が開花してゆくのは40歳をすぎてのことであったからである。43歳で二度目の結婚をし,最晩年はジョージ三世とシャルロッテ王妃から友人としての処遇を受け,ウィンザー城の一室をあてがわれたことをのべれば,その様子を容易に想像していただけるだろう。
ディラニー夫人の日々の関心や暮らしの様子は,かの女の子孫が編んだ書簡集 (Llanover, Lady Augusta Waddington Hall, ed.“The Autobiography and Correspondence of Mary Granville, Mrs. Delany: With Interesting Reminiscences of King George the Third and Queen Charlotte. ” 6 vols. in 2 series. London: Richard Bentley, 1861- 62.) から窺い知ることができる。1756年9月19日,妹のデューズ夫人に送った書簡に「私たちは歩きながら面白い花や草を見つけるとちょっと摘み取って,黒いエプロンのポケットに入れました。家に戻ったら,お茶を飲みながら観察するために」と書いていた。展示されたコートドレスがそうであったように,刺繍の図案が日々の野外での行動や観察,スケッチを通じて編み出されていたことが窺われる。自然の風景を眺め,かたや庭をつくり,花を育てる。またあるときには刺繍をする。その目と手が美しさを捉えてゆく。このような暮らしの循環が夫人のワークを支えていたと考えられるのである。
現在,大英博物館に約一千点所蔵されるペーパーコラージュ「フローラ・デラニカ」は,多種多様な植物がとりどりの色紙の小片を貼り合わせ表されている。72歳から最晩年にいたるまで制作がつづけられたその背景にはジョージ・D・エレットら同時代の植物画家との交流,また博物学者ジョゼフ・バンクスらが開催した講義の影響を指摘できる。つまり自然界のサイエンスへの関心がアートに結実したものといえよう。
夫人は妹に宛てた書簡のなかで「ニードルを忘れてはいけません」(1742年)と書いたことがあった。また1753年12月28日には「こんど会うときまで,スケッチとニードルを守りつづけましょうね」とも書き送っている。これは夫人がニードルワークを女性の重要な仕事と考えていたからにほかならない。では,なぜニードルワークに拘泥したのだろうか。夫人がその仕事ぶりや人柄を評価するときに「センシブルな友だち」という賛辞を向けていることが多々見られた。かの女が信頼する,ある夫人に宛てた書簡では,自分と気の合う仲間になるためには「センシブルな」資質を備えているか否かが重要であるとものべ,晩年,身体に不安を覚え始めた夫人は,心身の健康を維持するためにも「センシブル」であることを心にかけ,周囲の人びとは夫人のその「センシビリティ」を称えていた。「センシビリティ」がひとつの美的概念であった18世紀イギリスでは,美や真実を鋭敏に捉えてゆくセンスであると同時に「ポライトネス」な社交性や社会性を示す美徳として賛美された。女性に「センシビリティ」を求める夫人は,それを育む感性的営為としてニードルワークを推奨し,理想の女性像を表象するものとして「ニードルワーク」を捉えていたのではないかと考えられる。
2009年12月,イェール大学出版局より “Mrs. Delany and Her Circle” が上梓された。序論を含む14の論考はいずれも,ディラニー夫人の存在と作品の価値を立証するもので,その序論において編者で景観計画学者のマーク・レアードは,共著者のキム・スローンとアマンダ・ヴィッカリーのアマチュアに関する言及に触れていた。
大英博物館のキュレーターであるスローンは,イギリス美術史で軽視されてきたヴィクトリア朝以前のアマチュアの画業に光を当てた “A Noble Art: Amateur Artists and Drawing Masters, c. 1600-1800” (2000年)において,ディラニー夫人の作品の創意を「ヴァーチュオーゾ」に連なるものとし,ヴァーチュオーザとしての夫人のアートと知性の探究が女性の娯楽やたしなみに新しい地平を拓いたとのべている。「ヴァーチュオーゾ」「ヴァーチュオーザ」という語は17世紀より用いられ,その後18世紀を通じ,アートやサイエンスにジェネラルな雑多な関心をもつ人,あるいはスペシャルな探究をする学者や蒐集家の意味で使われた。代償なしにアートを愛し実行する人物をあらわす語として「アマチュア」が誕生したのは18世紀末のことである。スローンは書名に「アマチュア」という語を用い,ディラニー夫人もそのひとりとして取り上げるのであるが,注目したいのはその資質を「ヴァーチュオーゾ」に連なるものと言及していることである。したがって2009年の共著書では,夫人の作品をプロフェッショナルな画家の作品と比較することや歴史的に様式を検討するような狭い見方ではなく,それらを形成するスピリットのなかに,すなわちそれらを決定している社会的,文化的,自然的,哲学的,情感的な状況や対話において考察しアプローチしなければならないとのべている。
そして同様にヴィッカリーも同書において「紳士的ヴァーチュオジティの女性版」と夫人を称え,広い文脈でみることの必要を指摘する。夫人は,とくに著名なパトロン的存在でも政治上の人物でもなかったが,ポープやスウィフト,ホガース,バンクス,ポートランド公爵夫人,チェスターフィールド卿,また一時期イギリスに滞在していたルソーら,名を馳せた多くの人物と知遇を得,啓発される機会に恵まれていた。こうしたことがまさしく「ヴァーチュオーザ」としての夫人をつくりあげていったのではないだろうか。そして哲学者エドマンド・バークは「いつの世にも輝かしい女性」と称賛したのである。
大英博物館所蔵のコラージュは従来,「フェミニンなもの」「クラフトベイスのたんなる『サンプラー』」として,その芸術性が軽視されてきたといわれる。先の共著書においてヴィッカリーは「ディラニー夫人が制作したものには『非創造的,無力的』という言葉はあたらず,それは『可能性のマップ』」であるとし,芸術性を認める発言をしている。また「ガーディアン」紙の論評では,ドメスティック・クラフツは「尊敬に値し」「多価的で」「雄弁で」あるとし,「私たちはそれらを読むための力を失っているだけである」とのべていた。ディラニー夫人のワークを支え,また夫人が仲間たちに求めたセンシビリティは,見る側にも求められるということなのではないだろうか。