オリンピックと美術家
1930年代を中心に

五十殿利治

美術史学会|筑波大学

1930年代はアメリカの株価暴落による経済恐慌によって幕が開け、全体主義の台頭による政治的な混乱、そしてついには世界大戦に至り終幕を迎えるという「危機の時代」であるが、この時代の美術に関する研究は70年代末から取り組みが始まった。とりわけパリにおける万国博そしてミュンヘンにおける頽廃美術展が開催された1937年から半世紀を経た1987年にはそれぞれ大規模な記念展が企画されるなどして本格化した。

この混迷する時代に実施されたオリンピックと美術家の関係を大別するならば、まず芸術競技に参加する、あるいはオリンピックの実施に関係するという立場、そして反対にオリンピックの外部から関わるという立場がある。1912年ストックホルム大会に始まる芸術競技は1924年パリ大会で23カ国283点が出品されており、競技としての輪郭を整えたといえるが、不参加の美術家たちも、「狂騒の時代」にふさわしくパリ在住ロシア人美術家同盟が主催した「バル・オランピーク」では藤田嗣治が、小森敏が踊り、まさにお祭り騒ぎであった。

モダニズムという視点では、1928年のアムステルダム大会が見逃せない。大会会場では初めてオリンピック・フレイム(「聖火」)が期間中点されたが、その着想を実現したのは、スタジアムの設計者ヤン・ウィルスであった。ウィルスはモンドリアンが参加したグループとして知られる「デ・ステイル」に名を連ねており、1923年パリに進出した同グループの展示にも参加した。一方、アムステルダム大会の芸術競技では独自の図録が発行されるとともに、この大会から復帰を果たしたドイツが自国の参加者のための図録を用意した。ドイツでは美術とスポーツという課題は美術界でも広く認知されていた。たとえば1926年デュッセルドルフにおける大規模な博覧会GESORAIの一環として「美術とスポーツ、美術と体育」というテーマ展示が催されたし、翌年春のベルリン分離派展においてもスポーツをテーマとして、古今の作品277点が集められた。

1928年に開催された国際的な「オリンピック」はアムステルダムだけで開かれたわけではなかった。近代オリンピックを、ナショナリズムを煽るとして批判しつつ、個々のアスリートの実績を評価し、国際主義を主唱する赤色スポーツインターナショナルによる「スパルタキアード」がモスクワで開催されている。クルツィスの鮮烈なデザインによる大会記念の絵葉書はよく知られている。日本でもプロレタリア文学の片岡鉄平が短編「スパルタギアード」(『近代生活』1929年5月)を発表している。労働者文化のひとつのアイコンとしてスポーツが広く認知されていた。

労働者スポーツの祭典としてのオリンピックとしては、赤色スポーツインターナショルと対抗するSASI(社会主義労働者スポーツインターナショナル)の「国際労働者オリンピック」も催された。1925年にはフランクフルトで、そして1931年にはウィーンで実施されたが、後者は翌年のロサンゼルス大会よりも多くの観客を集めたとされる。ウィーン大会の記録集は、前大会のK.タンクの後期表現主義的な重苦しい挿図に代わり、G.フレーシュル装幀のフォトモンタージュを活用した軽快な構成主義的なデザインが表紙を飾った。「複数」のオリンピックの間で、近代オリンピック自体がすでに政治的なアリーナという性格を帯びていた。

日本は1932年のロサンゼルス大会より芸術競技に参加した。結果は乏しいものであったが、スポーツをテーマとして取り上げた彫刻家中心の集団「構造社」から画家神津港人が現地に派遣されるとともに、体育協会発行の大会報告書には作品《オリンピック村前》を寄せた。さらに1936年のベルリン大会では、大会招致を目指す日本政府は、新たな組織「大日本体育芸術協会」を設立、出品作品の公募と審査を行い、競技参加作品を送り出した。また建築家岸田日出刀が調査員として大会会場を視察して、『第十一回オリンピック大会と競技場』をまとめている。同書にはナチス・ドイツが大会のために、巨大な人像を随所に配置して建設した大規模な「帝国競技場」、オリンピック村など関係施設、そして大会の実際の競技場面や観衆の姿などが多数盛り込まれていた。

ナチス・ドイツのオリンピックに反対する動きとして、市民戦争の勃発で直前に中止となったバルセロナにおける「人民オリンピック」がよく知られているが、美術家の間でも広まっていた。とくに人民戦線の方針が出されると、たとえば反戦反ファシズムを旗印とするアメリカ美術家会議が結成され、1936年2月の最初の大会ではベルリン大会芸術競技への参加ボイコットが満場一致で決議された。またイタリアのファシスト政権のアフリカ政策に反対して、同年4月にはヴェニス・ビエンナーレに出品を拒否する動きが顕在化し、結局、参加は見送りとなった。1936年8月アムステルダムではDOOD(De Olympiade Onder Dictatuur)展という強烈なタイトル(「死」を意味する)の企画が実現し、多彩な傾向の作品が並び、ベルリン大会への美術作品による異議申立を行った。ベルリン大会の翌年1937年にはパリ万博そして頽廃美術展により、また日本では帝展改組の余波により、分断と危機が深まることになり、美術家はさらに時代へのコミットメントを求められることになったといえる。