スペイン・インフルエンザ/大戦/美術
〈忘れられた〉パンデミック再考

河本真理美術史学会|日本女子大学

「疫病と美術」という文脈でまず語られるのは、ヨーロッパで度々流行し、猛威を振るったペストである。ペストを題材にした美術作品は枚挙にいとまがない。ペストの惨禍の記憶を背景として、「最後の審判」や、骸骨などで擬人化された「死」が生者を打ち倒す「死の勝利」、生者と死者が踊りながら行進する「死の舞踏」といった主題が流行し、復古的・教条的な様式に回帰するなど、図像的にも様式的にも変化がもたらされたのである。

こうしたペストに対し、1918年から1920年にかけて大流行したスペイン・インフルエンザ(通称スペイン風邪)は、まずこのパンデミック自体が長らく「忘れられ」、俎上に載せられることが少なかったといってよい。しかしながら、スペイン・インフルエンザは、世界人口の25~30パーセント(≒5億人)が感染し、致死率は2.5パーセント以上、死亡者数は全世界で4000万人~1億人ともいわれており、実は第一次世界大戦や第二次世界大戦の戦死者数をしのぐほどの惨禍をもたらしたのである。特に1918年秋から始まった第二波は、若年者層の致死率が突出して高いという、後にも先にもない特異な様相を呈した。フランスの詩人ギヨーム・アポリネール、オーストリアの画家エゴン・シーレの命を奪ったのも、この第二波である。

これほど甚大な被害をもたらしながら、スペイン・インフルエンザがなぜ忘却されていたかについては、本発表でこれから美術との関わりも含めて考察していくが、このスペイン・インフルエンザがにわかに脚光を浴びたのは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が契機となっている。それは、今からおよそ100年前のパンデミックの経験に学びたいという切実な欲求の現れであり、あわせてスペイン・インフルエンザと美術の関わりに対する関心も高まった。実は、スペイン・インフルエンザの流行期間中に取られた対策は、感染者の隔離、集会の禁止、美術館などの閉館、国境の閉鎖など、コロナ禍の場合と似たようなものである。本発表では、これらの状況を踏まえたうえで、スペイン・インフルエンザが美術に何をもたらしたのかについて、同時期の第一次世界大戦との関わりも含めて、幅広い視点から考察していきたい。

スペイン・インフルエンザが長らく忘れられていた理由として、まず挙げられるのが(1)第一次世界大戦と流行時期が重なり、大戦の陰に隠れてしまうような形になったことである。さらに、(2)流行した範囲が世界全域に及んだのに対し、流行期間自体は短かったことも、スペイン・インフルエンザが第一次世界大戦に埋もれてしまうような形を助長した。しかしながら、そもそも感染症のパンデミックと戦争は、相伴う場合が多い。感染症は人の移動によって伝播し、戦争はそうした人の移動を大量かつ迅速に行うものだからである。さらに、第一次世界大戦時には、戦争の形態自体が、それまでの色とりどりの騎兵が華々しく展開するものから、大勢の匿名の兵士が(塹壕に隠れて)見えない敵に向かって突撃するものに変わり、ある意味肉眼には見えない感染症のウイルスとの関係に相似してきた。このようにスペイン・インフルエンザの場合、第一次世界大戦から切り離すことは困難で、パンデミックと戦争の相乗効果として考察すべきである。

また、スペイン・インフルエンザが忘れられていた別の理由としては、(3)流行した当初から、パンデミックの脅威を意図的に隠蔽してきたことも考えられよう。第一次世界大戦の交戦各国は、戦意低下につながりかねないパンデミックの情報を検閲し、隠蔽・矮小化した。中立国だったスペインでの大流行ばかりが報道されたために、皮肉にも「スペイン」インフルエンザという名称で呼ばれるようになったにすぎない。感染源については、現在主に三つの説(中国の山西省、アメリカ・カンザス州のファンストン基地、フランスのエタプル)があり、動員された労働者や兵士が媒介したと考えられているが、スペインでないことは確かである。しかし、何世紀も前のペストと比べると、スペイン・インフルエンザの感染源はよりデリケートで厄介な問題であり、積極的な検証を妨げる要因ともなっただろう。「忘れられた」というより、「忘れたい」のだ。

さて、ここから美術に関わってくるが、スペイン・インフルエンザの忘却のさらなる理由として、(4)ペストの場合は、「最後の審判」「死の勝利」「死の舞踏」など関連する図像や美術作品が豊富で、繰り返し記憶に刻まれるのに対し、スペイン・インフルエンザの惨禍を直接表象した美術作品が少なく、イメージしにくいことも挙げられよう。

その数少ない作品として挙げられるのが、スペイン・インフルエンザに罹患したといわれているノルウェーの象徴主義の画家エドヴァルド・ムンクの一連の自画像や、エゴン・シーレがスペイン・インフルエンザで死にゆく妊娠中の妻エディトを描きとめた素描、イギリス公式戦争芸術家に任命されたアメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェントがスペイン・インフルエンザ罹患中に描いた水彩《病院テントの中》などである。あるいは、アメリカの写真家アルフレッド・スティーグリッツが、スペイン・インフルエンザに罹患した画家ジョージア・オキーフを撮影した写真も、それに含めることができるだろう。

しかしながら、ペストの時代のような宗教的文脈が希薄になり、「死」を寓意や象徴によって表すことが少なくなった20世紀において、疫病の表象が容易でなくなったことは、その数の少なさにも表れている。したがって、スペイン・インフルエンザが美術に何をもたらしたのかを考察する際、疫病に罹患した芸術家自身や近しい人の表象といった、直接的な表象に限定すると、この問題の持つ幅広い射程を測り損ねてしまうだろう。

もちろん、スペイン・インフルエンザを第一次世界大戦と切り離して考えることはできないため、どこまでが純粋にパンデミックの影響なのか測ることは困難である。しかしながら、戦場における大量破壊・殺戮と見えざるウイルスによる大量の死者が、決定的な「精神の破局」をもたらしたことは疑いえない。見えざるものに対する恐怖と、それとは裏腹にまさにその恐怖の対象に惹かれることは、大戦以降の美術――対象が消え去った抽象(無対象)美術や、見えざる「無意識」を探ろうとするシュルレアリスム――となって現れてくる。また、バウハウスが製作した軽量で消毒しやすい機能的なデザインの椅子などが、スペイン・インフルエンザ後の衛生上の必要に合致していたという指摘もある。

こうして見てくると、スペイン・インフルエンザによるアポリネールの死は象徴的である。アポリネールは、大戦前はモダニズムを代表する詩人で、キュビスムの擁護者でもあったが、(1924年にアンドレ・ブルトンらによって創始されるシュルレアリスムと中味は相当異なるものの、)1917年に「シュル=レアリスム」という言葉を創り出したのもアポリネールだ。このようにアポリネールは、大戦前と大戦後の芸術の橋渡しをする役割を果たしたのである。

藝術学関連学会連合事務局

大阪大学大学院文学研究科美学研究室

横道仁志 esthe{at}let.osaka-u.ac.jp