世界史的出来事となった、新型コロナウィルスによるパンデミックは、感染の波を繰り返しつつ長期化し、日々の生活や経済活動のみならず、芸術・文化活動においても大きな影響をもたらした。コンサート等の文化イベントについては、日本でも、感染拡大が始まって間もない2020年2月終わり頃から、スポーツ・イベントとともにいち早く、政府からの開催自粛要請の対象となった。その後も、「三密」回避の呼びかけや、外出自粛要請、緊急事態宣言等によって、プロ・アマを問わず、活動の制限を余儀なくされた。
そうした中、社会では「テレワーク」「リモートワーク」がにわかに注目を集めて広がり始め、オンライン会議システムやオンライン配信は、教育の場でも、オンラインないしオンデマンド授業といった形で急速に浸透した。音楽分野でも、同様の活用事例は、リモート合奏やリモート合唱、実技指導、無観客公演のライヴ配信やオンデマンド配信など、さまざまな取り組みにおいて見られた。
リモート合奏や合唱の場合、オンライン会議システムなどでは音のずれや遅延が発生して、リアルタイムでの演奏はほぼ不可能である。そのため、例えば、コロナ禍初期に行われ、動画が公開された、新日本フィルハーモニー交響楽団「シンニチテレワーク部」の《パプリカ》や、フランス国立管弦楽団による《ボレロ》では、いずれも、各演奏者が自宅等で(テンポやタイミングを合わせるためのパルスや基準演奏をイヤホンで聴きながら)個別に演奏、録音したものが、多重録音で一つに編集されている。
合唱のリモート指導の事例では、一人ひとりの演奏録画を聴くことで、通常の練習時にはあり得なかった細かい個別指導が可能となるメリットも指摘され、また音楽大学等での個人実技指導に関しても、レッスンに対する学生の集中力が向上する、自分の演奏録画を見ることで客観的気づきが得られるといった好影響が見られた。しかしその一方、ハウリングなど音質の問題や相互の通信環境による問題、また対面時のように細部と全身の両方を同時に見ることのできない難しさもある。
こうした試みからは、オンライン技術の活用における可能性や利便性、問題点と限界の両面がともに垣間見られたが、コロナ禍で登場した「無観客公演のライヴ配信」や、オンデマンド配信は、さらに、芸術実践とその享受のあり方について、「場」の共有と身体性という観点から再考する契機ももたらした。
通常の有観客演奏会の収録映像、無観客公演のライヴ配信ないしオンデマンド配信映像、映像収録のために行われた演奏映像、の3つの事例(いずれもオーケストラ演奏)を取り上げ、比較すると、無観客公演の映像では、ホールの虚な空間にやけに響く、舞台登場時の指揮者の靴音や、無人の客席に向けた礼など、通常演奏会時とは異質の、妙に生々しく張り詰めた空気感が強く印象に残る。
一方、演奏会ではなく収録用に行われた演奏では、聴衆の不在は同じでも、全体の雰囲気は無観客公演とはまるで異なる。これは、映像上の演出の有無といった違いのみでなく、奏者らが、「その場に物理的にこそ存在しないが、本来は生身の身体を持ってすぐそこで聴いているはずの聴衆」をどこまで意識・想像しているかに起因するものと考えられよう。「場」の共有と身体性という点から演奏会場における体験を考えると、そこで我々が耳にするのは、「奏者から直接届く響き」と「発せられた響きが、会場内のあらゆる場所や、他の聴き手、また奏者らに反射し、全方位から届く響き」の両方である。これによって、「音に包み込まれる感覚」や、会場にいる全員がその場の響きを「全身で」共有する状況が生まれる。実物大、三次元の場に身をおくことも、スケール感や質量感の感得にあたって重要である。 これに対し、録音・放映、オンライン等で聴く音は、あくまで集音マイクで拾われたものの再生(その音の質の問題はここでは取り上げない)であり、演奏者と聴き手が、響きと身体を介して「直接つながっている」状態にはならない。
また、いわゆる「気配」や「間」、微妙な「息づかい」といったものは、生身の体で「場」を共有してこそ生じる繊細な身体感覚だと思われる。コロナ禍でステージ上のディスタンスを取って演奏した楽員らからは、互いの「間」や「気配」が感じ取りにくく、合奏がやりにくいという声がよく聞かれた。「場」(空間)を共有しない録音や録画では、視覚・聴覚以外のこうした皮膚感覚的なものは、ほぼ欠落してしまう。
最後に、「演奏聴取の場」と聴き手の身体・意識のオン/オフの関係に目を向けると、演奏会場で聴く場合、聴き手の身体は、物理的な移動を経て「音の生成する場」へと至り、そこに包摂される形となる。演奏終了後も、身体・意識は即座に「オフ」にはならず、聴き手の日常空間までの移動・移行の中で余白や余韻が生じる。
これに対し、何らかの視聴覚機器を通した視聴・聴取では、音・音楽の方が「聴き手のいる場」や空間に包摂される形となる。そのため、例えば自宅で家事をしつつリアルタイムのオンライン配信コンサートを聞くことも可能だが、視聴・聴取後の聴き手の身体・意識は、ちょうどオンライン会議終了後のように、その場からあっけなく切り離され(=オフとなり)、日常へと引き戻されることになる。すでに久しく前から録音、録画、放送等を通した視聴・聴取の方が標準化している我々にとって、普段、その非対面性や間接性を意識することはそれほどなかった。しかし、コロナ禍による物理的制限によって始まり、あるいは広まった、上掲のような「非対面・非接触」による芸術実践・享受スタイルの経験は、その利便性、限界や新たな形の視聴感覚を通して、図らずも、我々が少なからず希薄化あるいは鈍麻させていた「身体性」や、「場」の共有が持つ意味と重要性に、改めて気づくきっかけをもたらしたように思われる。
藝術学関連学会連合事務局
横道仁志 esthe{at}let.osaka-u.ac.jp