原爆を扱った井上ひさし作品における
「言葉」と「再生」
〜『父と暮せば』『少年口伝隊一九四五』を題材に〜

稲山玲日本演劇学会推薦|静岡文化芸術大学

本発表では、原爆を題材とした井上ひさしの劇作品『父と暮せば』(1994年初演)、『少年口伝隊一九四五』(2008年初演・朗読劇)を比較することで、井上ひさしが原爆という事象とどのように向き合ったか考察した。井上ひさしは戦争というテーマを様々な角度から描いた作家だ。特に広島に投下された原爆を扱った劇作品は計3作品ある。その内、原爆で父を失った娘のもとに父親の幽霊が現れる『父と暮せば』と、原爆により身寄りのなくなった少年3人が口頭でニュースを伝達する「口伝隊」の任を負う『少年口伝隊一九四五』の2作品は、人々の被爆後の生き方に重点を置いている点において共通している。

しかしながら、こうした共通点がある一方で、両作品はいくつかの点で対極とも言える関係性を結んでいる。まず挙げられるのは「言葉」の問題である。『父と暮せば』は父娘の対話劇だが、無数の人々の声を内包する劇でもある。例えば、娘の勤め先である図書館はいわば紙に印刷された言葉の殿堂である。また『父と暮せば』には刻字されえぬ言葉を継承する努力も描きこまれている。娘は、被爆前には広島で口承される民話を収集する活動をしており、現在はそこで収集した話を子ども達に聞かせるべく準備中だ。また、娘の恋人は原爆資料の収集家であり、原爆の熱によって変形した瓶や瓦などの資料を彼女の家に大量に持ち込んでいる。その資料も、原爆の惨状を伝える「言葉」の一種と見ることも可能である。嶋田直哉は、こうした「図書館」や「昔話」に象徴される「集団的な記憶」が、歴史的出来事を伝承していく上での重要な要素だと指摘している(嶋田直哉「記憶の遠近法―井上ひさし『父と暮せば』を観ること-」『日本近代文学』第94集 2016年 p.170)が、そうした「集団的な記憶」は、幅広い意味での集合的な「声」によって形成されていると言えるだろう。一方で、『少年口伝隊一九四五』において少年たちが伝達するニュースは当時のオフィシャルな、異論を許さない種のメッセージである。中には「塩を自作せよ」や「洞窟生活を楽しめ」といった旨の荒唐無稽な号令も混ざる。彼らが伝えるのは権威者が発する単声的な情報なのである。

また、両作には被爆後の広島における「再生」も描きこまれる。『父と暮せば』においては、被曝した若い娘が恋をすることにより立ち直っていく様が描かれるのだが、劇中の父娘の会話からは、娘が将来生まれてくるであろう子どものことについて恋人と話し合っていることが明らかになる。この未来の子どもは、再生の象徴とも言える存在だろう。一方、『少年口伝隊一九四五』における再生のあり方はより即物的である。同作中にはハエとウジ虫に関する描写が頻繁に登場する。原爆が投下されてから間もなく、死体や怪我人にはウジ虫が湧き、やがてハエが我が物顔でヒロシマを飛び回るのだ。この描写はグロテスクであるが一種の生命の循環であることには違いない。ただしここで新しい生命を育むのは母胎ではなく、死なのである。

発表では、上のような両作品の対極性を指摘した上で、改めて両作品に共通して見られる戯曲上の動きについて「言葉」と「再生」の二要素に着眼して考察した。第一の要素である「言葉」については、両作品中にはいずれも「排除されそうになった市井の人々の言葉が、むしろ溢れるように舞台に入り込む」という動きがあることを指摘した。そして第二の要素である「再生」については、『父と暮せば』における子ども、『少年口伝隊一九四五』におけるウジ虫の描写に加えて、『少年口伝隊一九四五』での水の描写に注目した。枕崎台風を題材にした同作には水の描写が頻出するが、水が常に姿を変えて「再生」する性質を持つことを踏まえれば、水というモチーフの中にも「再生」という性質が見出せる。そして、こうした共通する動きこそが、井上ひさしが原爆後を描いた作品に描きこんだ一縷の希望であり、そこに井上ひさしの原爆との向き合い方が現れているのではないかと結論した。

藝術学関連学会連合事務局

大阪大学大学院文学研究科美学研究室

横道仁志 esthe{at}let.osaka-u.ac.jp