Art and Peace/War
2023年6月3日(土) 13:00〜17:30(予定)
広島平和記念資料館 メモリアルホール
参加無料
今もなお各地で止まない戦火
平和をつなぐための芸術の力
歴史をたどり思考する
朝鮮戦争が激化するなか、核兵器が再び使用される危険が迫っていた1950年のクリスマス、原民喜は友人に宛てた手紙に、「あはれ愚かなわれらは身と自らを破滅に導き/破滅の一歩手前で立ちどまることを知りません」という一節を含む詩を添えた。この「家なき子のクリスマス」に至る戦後の原の戦後の詩作は、広島で被爆し、この街に暮らす人々の生がその世界もろとも根底から破壊されるさまを目の当たりにした体験を言葉に刻み込んだところから、その記憶を多声的に反響させるかたちで展開する。
そのような被爆後の詩作に関して注目されるべきは、戦前から詩を書いてきた原が、詩の姿を変えていくかたちでうたう可能性を追究しながら、想起の媒体となる言葉を紡いでいることだろう。この点は、第二次世界大戦中のユダヤ人虐殺をかろうじて生き延び、その後も反ユダヤ主義の恐怖にさらされながら詩を書き継いだパウル・ツェランの詩作と通底する。ツェランもまた、これらの傷を言葉に刻みつつ、ホロコースト以後の詩の可能性を批評的に探究する詩作を繰り広げている。
他者とともにある生を根こそぎにする暴力が、戦争の暴力として人々を脅かし続けている。この暴力の傷を引き受けたところから、戦後に芸術がどのように展開していったか、またその展開は芸術自体をどのように変えたかを問うことは、暴力の恐怖にさらされ続ける現在を歴史にもとづいて見つめ直しながら、芸術の意義を考えるうえで欠かせないと考えられる。ここではその問いに、被爆の傷を表現に刻みながら、作風を時期ごとに変えるかたちで展開した殿敷侃の美術にも着目しつつ取り組んでみたい。
殿敷は、原子爆弾によって死に追いやられた両親の遺品などをきわめて精密な点描で浮き彫りにする絵画から、父親の形見の爪を膨大に増殖させ、経済的な成長に踊る現在に介入させるシルクスクリーンなどを経て、開発と消費によって廃棄されたものが現在に逆流してくる場を、「美術」の枠組みを越えて開く芸術を繰り広げるに至った。このような殿敷の美術の展開には、暴力の歴史を見返しつつ、破壊の恐怖にさらされた生をその解放へ向けて汲んでいく、生存の芸術の可能性が萌していると考えられる。[詳細]
劇作家・小説家の井上ひさしは戦争というテーマを様々な角度から描いた作家だ。特に広島に投下された原爆を扱った劇作品は計3作品ある。その内、原爆で父を失った娘のもとに父親の幽霊が現れる『父と暮せば』(1994年初演)と、原爆により身寄りのなくなった少年3人が口頭でニュースを伝達する「口伝隊」の任を負う『少年口伝隊一九四五』(2008年初演・朗読劇)の2作品は、人々の被爆後の生き方に重点を置いている点において共通している。
しかしながら、こうした共通点がある一方で、両作品はいくつかの点で対極とも言える関係性を結んでいる。まず挙げられるのは「言葉」の問題である。『父と暮せば』は父娘の対話劇だが、より集合的な声を内包する芝居でもある。娘の勤め先である図書館は、いわば紙に印刷された言葉の殿堂である。それだけでなく、『父と暮せば』には刻字されえぬ言葉を継承する努力も描きこまれている。娘は、被爆前には広島で口承される民話を収集する活動をしており、現在はそこで収集した話を子ども達に聞かせるべく準備中だ。また、娘の恋人は原爆資料の収集家であり、原爆の熱によって変形した瓶や瓦などの資料を彼女の家に大量に持ち込んでいる。その資料も広い意味では原爆の惨状を伝える「言葉」と言えるものだろう。すなわち本作の中には刻字されたものであれ、されていないものであれ、多様な種類の言葉が盛り込まれているのだ。一方で、『少年口伝隊一九四五』において少年たちが伝達するニュースは当時のオフィシャルな、異論を許さない種のメッセージである。中には「塩を自作せよ」や「洞窟生活を楽しめ」といった旨の荒唐無稽な号令も混ざる。彼らが伝えるのは権威者が発する単声的な情報なのである。
また、両作には被爆後の広島における「再生」も描きこまれる。『父と暮せば』においては、被曝した若い娘が恋をすることにより立ち直っていく様が描かれるのだが、劇中の父娘の会話からは、娘が将来生まれてくるであろう子どものことについて恋人と話し合っていることが明らかになる。この未来の子どもは、再生の象徴とも言える存在だろう。一方、『少年口伝隊一九四五』における再生のあり方はより即物的である。同作中にはハエとウジ虫に関する描写が頻繁に登場する。原爆が投下されてから間もなく、死体や怪我人にはウジ虫が湧き、やがてハエが我が物顔でヒロシマを飛び回るのだ。この描写はグロテスクであるが一種の生命の循環であることには違いない。ただしここで新しい生命を育むのは母胎ではなく、死なのである。
以上のように、『父と暮せば』と『少年口伝隊一九四五』は対極性のある作品である。相互補完的な側面を有する両作を比較することにより、井上ひさしが原爆という事象とどのように向き合ったのか考察したい。[詳細]
1945年8月、広島と長崎に原爆が投下され、およそ20万人が死亡した。人類がはじめて体験した核爆弾による惨状はその後、文学、映画、絵画をはじめとするさまざまな芸術作品の題材として取りあげられることになったわけだが、もちろん音楽分野も例外ではない。能登原由美の研究によれば、小曲やアマチュアの楽曲まで含めると、原爆を題材とした音楽作品は1800曲をゆうに越えるという(能登原由美『〈ヒロシマ〉が鳴り響くとき』2015年)。それらの多くは歌詞のレベルで原爆の惨禍を扱ったものだが、いわゆる「現代音楽」の世界においては、単に歌詞の次元をこえて、オーケストラや声楽を総動員してこの問題に迫ろうとする試みが多々行われた。
それらは、現代手法を駆使して破滅的な響きを作りだそうとする作品、ひたすら悲しみの感情を吐露する作品、再生や復興をうたう作品、広く平和への祈りをささげる作品、原爆を投下したアメリカ合衆国を非難する作品、ノスタルジックに「原爆以前」を思い起こす作品、あるいはそれらの混合など、実にさまざまなパターンがある。本発表ではパウル・デッサウ、クシシトフ・ペンデレツキ、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ、ルイジ・ノーノ、アリフレド・シュニトケ、細川俊夫、藤倉大、徳永崇をはじめとする、広島を題材にした大規模な楽曲群を比較しながら、彼らがどのようにしてこの究極の悲劇を描きだそうとしたのか、そこにどのようなパターンがみられるのかについて分析的に考察をくわえる。
さらに原爆のような究極の悲劇を音楽で扱う際には、必然的に「表象の禁忌」とでもいうべき倫理的な問いが発生する。こうした題材を提起・喚起することと、単に見世物の「悲惨ポルノ」を提出することはつねに背中合わせであり、作り手には慎重なタクティクスが要求されよう。これまでの音楽作品はいったいそうした要請を満たしたものといえるのか。この点についても批判的に検討してみたい。
先例というほどではないにせよ、現下のウクライナ戦争、それもロシアにとってのそれはいくつかの点で、日本がかつて戦った日中戦争の体験を思い起こさせる。
1937年の盧溝橋事件に端を発する日中戦争は、近代日本の戦争のほとんどがそうであったように、国外に派兵して戦う大がかりな外征戦争だった。一方、局地的な小競り合いから始まり、大方の予想を裏切るかたちで長期化、泥沼化した日中戦争は、日本人にとって、総力戦でありながら明確な戦争理念を持たない奇妙な戦争でもあった。折しも当時の日本では、関東大震災からの復興とともに勢いづいた都市の大衆消費文化が爛熟期にさしかかっていた。日中戦争が戦争ではなく、あくまでも戦争未満の「事変」と呼ばれ続けたのはこのこととも関係があるかもしれない。平穏な日常から遠く離れた中国大陸での苛烈な戦いをどう理解すればよいのか、当時の日本人は心の落としどころを探しあぐねていたようにみえる。
降ってわいたような事変への戸惑いは当時の美術にも見て取ることができる。開戦当初から自発的な従軍画家が相次いだのは事変への共感ではなく、むしろ共感の欠如によるものだった。理念の曖昧な日中戦争には、兵士として戦う以外に胸を張れる戦争協力の方途がなく、総力戦に従おうとする国民は、いかに兵士の様であるかを競わざるを得なかったからだ。このような状態では、いくら従軍画家が増えようとも、かれらが見事な戦争画を描きこなすことは難しい。戦争画を描きこなすには戦争をあくまでも素材として突き放して操る必要があるが、事変の傍観者を決め込んだようにも見えかねないそのような態度は倫理的に許されなかった。しかも明確な戦争理念を持たない事変には善悪のはっきりした物語がない。日中戦争期の画家たちが戦争画を描かざるを得ない立場へと自らを追い込みながら納得のいく戦争画を生み出せずにいた理由は、理念の曖昧な事変それ自体にあった。
また、理念を置き去りにしたまま進む外征戦争は、それと内心の折り合いを付けねばならない国民の葛藤を先回りして慰撫するかのような占領地の表現にも道を開いた。事変下の占領地を描いた作品には戦地の日本兵とむつみ合う現地の子供や女性、老人のモチーフがしばしば見られるが、そこには出征した兵士を「家長」になぞらえた「家族」の図式が重ねられていることがわかる。進駐した兵士が現地の子供からあたかも「父」であるかのように、女性から「夫」、老人からは「息子」であるかのように慕われていれば、それは日本軍の侵攻が正当であったことの何よりの裏付けとなる。と同時にそうした作品は、それまで「家長」の座にあったはずの中国兵を視野の外に押しやることで、凡百の戦争画にもまして日本の勝利を効果的に印象付けることができた。
現在進行形の国際情勢は、このような日中戦争の経験が必ずしも過去のものではないことを物語っている。ウクライナ戦争と美術の関係が語られるのは当分先のことかもしれないが、その日に備え、日中戦争期の日本の事例をもとに一つの補助線を提示しておきたい。[詳細]
「モンペ」については様々な定義・解釈があるが、本報告では太平洋戦争期に「婦人標準服」の一つに指定され、日本帝国の女性に広く着用されたと考えられている「モンペ」を取り上げ、その普及や着用に当たってどのような動機があったのかを考える。
「モンペ」は農山村の仕事着に由来するとされたことから、日本独自でありながら、貴族的ではなく庶民的で、総動員体制の思想になじみやすかった。また戦時動員や防空の目的に合致した、「機能的」な衣服であった。さらに女性用とされたため、足が分かれた着衣でありながら、女性性を損なうことはないと考えられた。加えて自家縫製、更生服を基本としたことから、階層や地域を問わず普及が可能であり、植民地・占領地でも着用の推奨が可能であった。
日本帝国の「内地」および「外地」における、「モンペ」に関する様々な言説や表象を分析することにより、「モンペ」推進の背景に、民芸運動やファシズムの動きに看取されるような、民族主義、汎アジア主義、全体主義など、互いに矛盾するようにも見える当時の様々な思潮が絡まり合って存在したことを明らかにする。[詳細]
第3次中東戦争停戦後まもなく、エルサレム市はモダン・デザインによる市街地の整備と拡張に着手した。エルサレム市長テディ・コレックは1969年、この計画に関する国際的知見を集約するためにエルサレム会議を発足させた。同会議には、画家、彫刻家、建築家、都市計画家、神学者、法律家、教育者など、多彩な領域の学識経験者が、諸外国から招聘された。
エルサレム市の整備拡張計画に関する具体的な議論は、エルサレム会議の全体会議の傘下に翌年設置された都市計画専門小委員会においてなされた。この委員会には、ルイス・カーン(建築/米国)、オスカー・ココシュカ(絵画/オーストリア)、アリエ・シャロン(建築/イスラエル)、フィリップ・ジョンソン(建築/米国)、ブルーノ・ゼヴィ(建築/イタリア)、ジャン・ティンゲリー(彫刻・絵画/スイス)、バックミンスター・フラー(デザイン・建築/米国)、ヴェルナー・デュットマン(建築・都市計画/ドイツ)、イサム・ノグチ(彫刻・環境デザイン・デザイン/米国)、ヤコブ・バケマ(都市計画・建築/オランダ)、ペドロ・ラミレス・バスケス(建築・デザイン/メキシコ)、ローレンス・ハルプリン(環境デザイン/米国)、マックス・ビル(デザイン・建築/スイス)、ニコラウス・ペヴスナー(建築史・デザイン史/イギリス)、リチャード・マイヤー(建築/米国)、ルイス・マンフォード(都市論・文明史・技術史/米国)、ヘンリー・ムーア(彫刻/イギリス)らが参加し、委員長はぺヴスナーが務めた。『モダン・デザインのパイオニアたち』(Pioneers of Modern Design, 1936/1949)の著者ぺヴスナーの委員長就任は、コレック市長直々の依頼に拠るものであった。
これらの参加者の多くは、第二次世界大戦下で政治的・民族的対立の悲惨な顛末を直接経験していた。彼らは、「政治と芸術」「紛争と芸術」といったテーマを常に身近な問題として意識してきた人びとであって、第3次中東戦争停戦まもない紛争都市エルサレムの発展的将来について、芸術的視角から検討しようとするエルサレム会議の試みは刺激的で意義深いものであったに違いない。それはモダン・デザインによる政治的・民族的・宗教的諸対立の克服は可能か、モダン・デザインに紛争都市における福祉社会を実現するのに果たし得る役割はあるのか、といった問題について考える絶好のチャンスであった。
本報告では、第3次中東戦争停戦後まもないエルサレムに参集した冷戦期を代表する芸術家(建築家、都市計画家、画家、彫刻家、デザイン史研究者)たちが戦争を経た紛争都市が直面する諸問題をめぐって交わした諸議論の芸術的、社会的、そして現代的意義について考える。[詳細]
藝術学関連学会連合事務局
横道仁志 esthe{at}let.osaka-u.ac.jp