太平洋戦争期(※1)のモンペ
―民族主義、汎アジア主義、全体主義の交差点―(※2)

森理恵服飾美学会|日本女子大学

問題の所在

最初に前提となる問題関心をお示しします。近代戦争、とくに第一次世界大戦以降の世界における戦争のありかたについてです。第一次世界大戦以降、世界各地で戦争をおこなう中で、近代国民国家は、いつでもその資源(人的資源、物的資源、科学技術など)を戦争に活用できるように体制を整えていきます。そのなかで、戦時と平時の区別がない、戦争が平和の理由付けになり、平和が戦争の理由付けになる、というようなことが進んでいきます。また、戦争に備えるため、すなわち、より効率よく資源を戦争に活用できるようにするために、国家の構成員の一体感を高め、その内部の格差を見えにくくする、といった工夫が凝らされていくようになります。その他にもいろいろな特徴を指摘することができると思いますが、こうしたシステムは、多くの研究者が指摘しているとおり、第一次世界大戦以降、現代まで、世界各国で様々な形で高められてきていると言えます(※3)。日本国の現在の状況もまさにこれに当たると思います。こうしたあり方を、ここでは、戦時動員システムと呼びたいと思います。日中戦争からアジア太平洋戦争の時期に使われた言葉としては、「総動員体制」がこれに当たると考えます。
そうしますと、下に述べますように、戦争中を描いたドラマや映画でよく見かける、あの「モンペ」、女性がはいているあの「モンペ」が、理念としてはまさに、この総動員体制にぴったりの衣服であることがわかります。私は、理念としてぴったりであるがゆえに、「モンペ」が戦争の末期に報道等でよく用いられ、広まり、また、戦争の象徴のようにドラマや映画で使われる理由であると考えられます。

モンペが総動員体制にぴったりの衣服であるという理由ですが、まず、この時期のファシズムの特徴として、反貴族主義、反保守主義、反資本主義、反共産主義、「神話的核」や血と精神にもとづく民族の団結による階級の分裂の回避、といった諸特徴が指摘されています(※4)。それらとモンペとのかかわりを考えてみますと、まず、モンペは農山村の仕事着がルーツであるとされていますので、反貴族主義であるとか、労働の称揚といったことに結び付けられます。また、日本の農山村由来であることから民族主義や民芸運動などとも親和性が高いです。ところが、逆に、あとでインドネシアの例も出てまいりますが、さまざまな生地を利用した自家裁縫が前提とされているところから、汎アジア主義にとっても好都合でした。モンペが歓迎された背景には、西洋資本主義が主導するファッション、アパレル産業に対する反発もあったことが考えられます。
さらに、モンペは階級を問わず幅広く着用が呼びかけられました。これを着て公的な場に出てもよいとされました。そのため、階級の平準化への期待がありました。また、この時期のモンペは女性用とされ、足が分かれた活動的な衣服であるにもかかわらず、丸みのあるシルエットを持ち、女性らしさを損なわないとされていました。
このように、徴兵制が適用されない女性に対し、階級を問わず、ユニフォームを着せることは、女性の動員、全体主義にとって好都合であったと考えられます。ジェニファー・クレイクは、ユニフォームは全体主義にとても効果的であると論じています(※5)
それではこのあと、太平洋戦争期のモンペの成立について述べ、各地のモンペについての報道資料をご紹介したあと、実態や抵抗の可能性について考えていきます。

モンペの発明、そして婦人標準服

2000年以降の、モンペについての主な研究(※6)にもとづいて述べていきます。
尾﨑智子さんが明らかにされているとおり、モンペは改良野良着です。20世紀はじめの生活改善運動のなかで、農村の労働着を改善していこうというところから生まれました。もちろん、それ以前にも足が分かれた形の、農山村の労働着はありましたが、女性にはあまり用いられず、西日本ではほとんど用いられていませんでした。また、足が分かれた労働着と言っても、形状や名称など様々でした。それが、20世紀はじめの生活改善運動のなかで、形状や名称がしだいに収斂していきました。しかし、足が分かれた形の女性用衣服は、地域によっては非常に抵抗が強く、なかなか普及しなかったことを尾﨑さんは明らかにされています。
改良された農作業着であるモンペを、女性の戦時服として活用しようというアイデアは、1930年という早い時期に、陸軍の木村松吉という人物が提案していることを井上雅人さんが明らかにされています。しかしそのアイデアが実現されるのは、1942年、「婦人標準服」というものが厚生省の通達という形で発表された時のことでした。婦人標準服が決まるまでには、多くの試作品の提案があり、多くの意見が交わされました。婦人標準服には洋服型のものと、着物型のものと、「活動衣」と称するズボン型のものがありました。このズボンが、モンペのようなものであり、「ズボン」ではなく「モンペ」と呼ばれることになりました。このようにして、モンペは改良野良着から女性用戦時服となりました。

大日本帝国のモンペ

では次に、当時の報道資料からモンペの表象を見ていきます。まず、1944年12月に朝日新聞が発行したグラフ『大東亜戦争と台湾青年』です。海軍志願兵とその家族の写真では、一人の女性がモンペ姿です。また、台北でおこなわれた、いわゆる防空演習や、農作業の勤労動員の様子を写した写真で女性たちがモンペをはいています。
また、朝日新聞南鮮版1943年1月1日号では、セーラー服にモンペ姿で勤労動員に参加する女学生の姿が描かれ、「新しき美」として称揚されています。植民地朝鮮と朝鮮戦争時のモンペについては、いくつかの研究があります(※7)。朴京子さんは「日帝時代の服飾」のなかで、朝鮮総督府によりモンペの着用が推進されたが、モンペはチマの下に着る下着に似ているために朝鮮女性により忌避されたと述べておられます。一方で、井上和枝さんは植民地朝鮮においてモンペが労働着として着用されるようになったこと、そして、조우현さんと김미진さんは、朝鮮戦争時に、その利便性のためにモンペの着用が広まっていったことを明らかにされています。
日本軍の占領下のジャワで、ジャワ新聞社により発行された『ジャワ・バル』というグラフ誌では、1944年7月15日号に「防空服」として婦人標準服の活動衣のようなものが掲載されています。「着古したサロン3メートル半で、頭巾からブラウス、モンペまでが製作できる」としています。また同年の9月1日号では、白いブラウスにモンペ姿で防空演習に参加するジャワの女性たちの写真が掲載されています。
『ジャワ・バル』掲載の「防空服」と1939年~40年にイギリスの雑誌に発表された「サイレンスーツ」は非常によく似ています。同時期にイギリスと日本で、非常によく似た女性用衣服が開発されていたことがわかります。

モンペの実態と抵抗の可能性

それでは最後に、モンペの実態と抵抗の可能性について考えます。
上に紹介したのはすべて報道の資料です。実際にどうであったかということはわかりにくいです。中原淳一は当時、若い女性のためのお洒落のアドバイスとして、とてもお洒落なサロペット型のモンペを提案しました。一方で中原は、兵士への慰問絵はがきの挿絵には、民芸調あるいは農村風、フォークロア調のモンペを描いています。私たちが現在、モンペと言われて思い描くのは、後者のようなものです。
モンペは自家裁縫の時代の衣服で、着物などを仕立て直して自分で作ることが前提です。したがって、形はだいたい似通っていますが、かなり幅があり、色柄にいたっては、手持ちの着物や余り布を使用するため、千差万別です。そのことから、理念の上では、農山村の労働着をもとにしているため民族主義にアピールするとか、階級差を見えにくくする、と言えますが、実際にそれが実現されたかというと、怪しいように思われます。戦争中の生活を描いた現代のドラマや映画では紺ガスリの民芸調のモンペが使われていることが多いのですが、実際にはそうでもなかったようです。
むしろ、井上雅人さんが主張するように、モンペは「動きやすい衣服」として身体感の変容をうながし、その快適性から戦後に普及したと言えます。20世紀はじめの生活改善運動のときに必ずしも広まらなかったモンペは、戦後に農作業着として定着しました。農山村に限らず都市部でも、動きやすい家庭着として、戦後も長くモンペを愛用したという女性の体験談も耳にします。韓国でも、女性の労働着・家庭着として普及しています。

それでは、戦時動員システム、総動員体制への抵抗の可能性についてはどうでしょうか。枝木妙子さんは、野良着としてのイメージが根強い一方で、モンペにも流行があり、ファッション性を持っており、大政翼賛会が警告するほどであったことを明らかにされています。また、飯田未希さんは、実際にはモンペは、1945年まで一般女性にはなかなか広まらなかったことや、「モンペ」とよばれるズボン型の衣服のなかでも、和装型より洋装型が好まれたことを明らかにされています。そして、総動員体制のなかでも個人主義的におしゃれを追求した女性たちに対し、「彼女たちには彼女たちの闘いがあった」と述べておられます。
和装型にせよ洋装型にせよ、好き勝手にカラフルなモンペを作って着て楽しむことを、女性たちの静かな抵抗と呼べるのかもしれません。婦人標準服としてモンペが決定された時の体制側の意図を換骨奪胎し、これまで女性には許されなかった動きやすい自由な衣服としてモンペをどんどん着用していくことを、一種の抵抗と呼べるかもしれません。
しかし、残念ながら、そうした静かな抵抗が戦争を防いだり、終わらせたりしたかというと、そうではありません。今回のシンポジウムのテーマは「戦争と平和」ですが、「平和」という言葉はいつも、戦争の口実に使われています。世界各地で戦闘がおこなわれたり、自分が住んでいる地域に軍事基地があったり、そこから兵士や兵器や装備品が戦地に送り込まれたり、自分が住んでいる地域で兵器が研究、開発、製造されたり、とそういったことを終わりにするためには、やはり、戦時動員システムがいかに巧妙に作り出され、戦時と平時の区別をなくし、私たちの日常、ファッションの世界にまで入り込んで、人々をいつでも戦争ができる仕組みづくりに向かわせているか、を見抜き、それに抗っていけるかを考え続けることが重要と考えます。

※1本報告では「太平洋戦争期」という用語を、太平洋戦争がおこなわれた時期、すなわち、1941年の12月から1945年の9月までの時期を指すものとして用いる。この時期に日本がおこなっていた戦争を指し示す語としては、日中戦争、アジア太平洋戦争、日中・アジア太平洋戦争などの語があるが、ここでは、戦争の内実をあらわす名称としてではなく、時期をあらわすための呼称として「太平洋戦争期」という語を使用する。

※2本報告は、2020年から2022年にかけて発表した以下の拙文をもとにしている。これらに大幅に加筆修正を加え、本報告を作成した。
Mori, Rie. 2020. The monpe as a totalitarian costume: Japanese farmer work pants as a wartime uniform for women in the Japanese empire. Fedja Vukić and Iva Kostešić eds. Lessons to Learn?: Past Design Experiences and Contemporary Design Practices -Proceedings of the ICDHS 12th International Conference on Design History and Design Studies. Zagreb: UPI2M Books, 393-396.
Mori, Rie. 2021. Perfect women’s attire for the fascist state. Gendering Fascism: Online workshop by Andrea Germer and Jasmine Rückert, Heinrich Heine University.(口頭発表)森理恵. 2022. 総動員体制下のモンペ. 京都大学東南アジア地域研究研究所. 装いと規範, 5: 15-21.
森理恵. 2022. 日中・アジア太平洋戦争期のモンペとファシズム. 樹下道, 14: 2-7.

※3倉沢愛子, 杉原達, 成田龍一, テッサ・モーリス-スズキ, 油井大三郎, 吉田裕 編. 2006. 動員・抵抗・翼賛 (岩波講座アジア・太平洋戦争 ; 3). 岩波書店. ほか参照。

※4Griffin, Roger. ed. 1995. Fascism. Oxford: Oxford University Press.

※5Craik, Jennifer. 2005. Uniforms Exposed: From Conformity to Transgression. Oxford: Berg.

※6井上雅人. 2001. 洋服と日本人 国民服というモード. 廣済堂出版.
尾崎(井内)智子. 2016. 農村生活改善による改良野良着の普及とモンペ. 東京大学日本史学研究室紀要20: 35-61.
枝木妙子. 2019. 非常服としてのモンペの<流行>—第二次世界大戦期の新聞や婦人雑誌の記事に着目して―. 立命館大学アート・リサーチセンター紀要, 19: 15-24.
飯田未希. 2020. 非国民な女たち―戦時下のパーマとモンペ. 中央公論新社.

※7朴京子. 1982. 일제시대의 복식 (日帝時代の服飾)—1910년 〜1945년—. 韓國文化財保護協會編. 韓國의服飾. 韓國文化財保護協會
白英子. 1982. 해방후의 복식 (解放後の服飾). 韓國文化財保護協會編. 韓國의服飾. 韓國文化財保護協會.
井上和枝. 2011. 農村振興運動〜戦時体制期における朝鮮女性の屋外労働と生活の変化.国際文化学部論集, 11(2-4): 81-104.
조우현ㆍ김미진 (Woo Hyun Cho and Mijin Kim). 2015. 'The Journey of Duty to Korea in 1954~55'를 통해 본 한국패션 (Korean Costume Shown on “The Journey of Duty to Korea in 1954-55”). Journal of the Korean Society of Costume, 65(7): 129-144.

藝術学関連学会連合事務局

大阪大学大学院文学研究科美学研究室

横道仁志 esthe{at}let.osaka-u.ac.jp