1967年6月に勃発した第3次中東戦争が停戦をむかえると、エルサレム市長テディ・コレックはイスラエル領となったエルサレム市内の生活環境の改善をめざして市街地の拡張・再開発に着手した。
この事業に向けた基本計画は、早くも翌1968年に発表(以下、1968年基本計画案)されたが、それは1964年にイスラエルのモダニズム建築家たちが中心になってまとめていたエルサレム近代化構想を元に策定されたものであった。
この基本計画において主たる課題とされたのは、以下のような点であった。
また、計画策定に際しては、将来予想され得る問題として、次の3点に留意することが確認された。
そしてこうした方針を具現化・空間化するための実際の方法として、1968年基本計画案ではたとえば次のような方策が提案されることになった。
以上のような課題認識と方針が盛り込まれた1968年基本計画案は、全体としてモダニズムの精神に強く突き動かされた、合理的で機能的な都市空間の実現をめざしたものであった。
コレックは、この基本計画案について国際的な知見を集約し、最終案として確定させることをめざして、建築、都市計画、神学、哲学、芸術、経済学、法律、ジャーナリズムなど異なる分野の学識経験者約70名を世界各国から招聘して、この事業について市長コレック自身が諮問する会議体、エルサレム会議(The Jerusalem Committee)を発足させた。
第1回エルサレム会議は1969年7月に開かれ、第2回会議が1973年6月、第3回会議が1975年12月に開催された。
この間、イスラエルと周辺諸国との間の緊張関係は続いていた。第3次中東戦争の停戦成立の翌月1967年7月には、早くもエジプト軍とイスラエル軍の武力衝突が発生し、その後1970年8月までイスラエルとエジプトの間で散発的な戦闘が続いた。さらに1973年10月6日には、エジプトとシリアがイスラエルを攻撃して第4次中東戦争が勃発、同月23日の停戦まで戦闘が繰り広げられた。
エルサレムの拡張と再開発をめぐるエルサレム会議の議論は、まさに戦禍の中の試みであった。
第1回エルサレム会議には、計40名の委員が出席した。この会議では、1968年基本計画案に関する評価と検討が行われるとともに、エルサレム市の持つ宗教的、文化的、歴史・考古学的特殊性、同市の拡張・再開発について国際的な知見を集約しようとする試みそのものの画期性、そして同市に内在する種々の分断・対立要素を克服することの困難さについて、認識の共有が図られた。
会議後に発表された「エルサレム会議―初回声明」では、以下の姿勢がその後の議論の前提として確認された。
この第1回会議では、さらにエルサレムの都市計画上の具体的な課題について専門的な見地から議論することのできるエルサレム会議都市計画小委員会(The Jerusalem Committee Townplanning Subcommittee)の設置が提案された。これを受けてコレックは、都市計画小委員会の設置を決定、ルイス・カーン、フィリップ・ジョンソン、バックミンスター・フラー、イサム・ノグチ、ブルーノ・ゼービ、ルイス・マンフォード、デニス・ラスダン、ローレンス・ハルプリン、エドワード・フライ、モシェ・サフディ、ニコラウス・ペヴスナーら建築・都市計画・芸術諸分野の専門家31名に委員を委嘱した。コレックから直々に同委員会の委員長への就任を要請されたのは、建築史家・デザイン史家ニコラウス・ペヴスナーであった。
こうした委員たちの中には、それ以前にイスラエルで設計活動を経験していた者も含まれていた。ジョンソンは、1956年から1959年にかけてソレク原子力研究所の設計を担当し、古の神殿を彷彿とさせるような外観を持つ建築を実現していた。カーンも、1968年以降、エルサレム旧市街ユダヤ人地区に建つハルヴァ・シナゴーグの新築計画に従事していた(※1)。またノグチは、イスラエル博物館の敷地内にビリー・ローズ・アート庭園を設計していた。
エルサレム会議都市計画小委員会の第1回会合は、1970年12月、「エルサレム―過去と未来」と題して開催された。建築から彫刻、さらには美術・デザイン史研究まで、芸術諸分野の境界を横断して当代を代表する面々が一度に会したこの貴重な機会を、ノグチは写真に、ハルプリンは似顔絵に残している。
エルサレム会議都市計画小委員会の参加者の多くは、エルサレムの記念碑性とその非現代的な異国性に唯一無二の価値を見出していた。彼らはエルサレムが、当時西側先進諸国では見慣れた「巨大な駐車場と高速道路に覆われた近代都市」となることに強い抵抗感を示した。それゆえ最新の基盤施設の整備と人口増加に備えた効率的な住宅供給、そして自動車交通網の発展を強力に推進しようとする1968年基本計画案に対しては、強い批判が起こることになった。
カーンは、1968年基本計画案には「ヴィジョン、精神、テーマ、そして個性すらない」(※2)と批判し、基本計画全体を貫く「統一テーマ・原理原則」(※3)をまず策定することの重要性を主張した。ジョンソンは、米国建国時の指導者たちを引き合いに出して、イスラエルの人びとがエルサレムの将来を構想するうえで、もっと常識に囚われない「遠大な夢」を持つべきであると演説した(※4)。
都市計画小委員会の会合に対面で出席することができなかったルイス・マンフォードは、会期に先立って、「エルサレムのための計画に関する備忘録」(‘Memorandum on the Plan for Jerusalem’)(※5)と題した文書を準備して、コレックに送っていた。その中で彼は、「エルサレムは一国家の首都ではなく、世界の首都にならなければならない」、「エルサレムにイスラエルの将来のみならず、世界の今後何世紀にもわたる危うい行末がかかっている」と主張した。マンフォードにとってエルサレムは、「文化的統合の象徴」および「世界平和に向けた積極的な貢献を果たす存在」として「管理維持」されるべきであった。そうした存在意義を保持するためならば、エルサレムの「経済的な発展、産業の振興、政治的機能の拡大は強く抑制されるべき」であり、「エルサレム近郊の人口を制限し、エルサレム市を宗教的・教育的中心として発展させることに注力すべきであることは明白」であった。
ジョンソン、カーン、マンフィードらが表明した見解は、表現に違いはあれ、いずれもエルサレムの歴史的・文化的・政治的記念碑性と宗教的象徴性を強く意識したものであった。世界各地から集まる巡礼者や観光客がエルサレムに期待するような非現代性と特殊性を失うようなことがあれば、この都市の価値そのものが失われることになる、との危機感を彼らは共有していた。
一方、利便性と経済性を強く意識したモダニズム色の強い1968年基本計画案は、彼らが重視したエルサレムの持つ特別な価値と性格を喪失させる危険なものと考えられた。
カーンをはじめとする識者たちの主張は、エルサレム市の類まれな歴史と文化、そして精神性を都市計画の文脈においても表現することを重視したものであったが、それは同時に、モダン・デザインに対する新しい態度の表明でもあった。1959年、近代建築国際会議は第10回会議をもって解散し、モダニズムの影響力は急速に薄れ、1970年代初頭、西側先進国ではモダニズム一辺倒の近代都市建設は既に魅力を失っていた。自動車による高速移動を基準に構想された同じような近代都市が世界各地に建設されることに、当代を代表する建築家、都市計画家たちは嫌気がさしていた。
しかし、第1回都市計画小委員会が3日間の日程を終了後発表した声明では、モダニズム色の強い1968年基本計画案を激しく批判するような文言は結局盛り込まれなかった。エルサレムの宗教的、文化的、歴史・考古学的な価値と特殊性への配慮が重要であること、そしてエルサレム市当局がエルサレム会議に提示した1968年基本計画案については見直しが図られるべきであることが明示された一方で、「偉大な都市の拡張・整備計画がまるで進化を遂げるかのように生み出され、機能的、社会的、経済的、感情的、そして象徴的な社会問題を十分に踏まえることで、徐々にそれらの諸問題の(総合的)合意に到達することができるような、確固たる計画指針を打ち立てる必要がある」との指摘も明記された(※6)。
加えてこの声明は、エルサレム会議都市計画小委員会が「エルサレムの政治指導部が、さまざまな社会課題が絡み合った現代と未来の諸問題に対応するために、最先端の都市計画の立案と実施を推進していること」を「心強く感じている」(※7)との文言で結ばれていた。エルサレムの宗教的、文化的、歴史・考古学的特殊性を過剰に強調するあまり、実際にエルサレムに住む市民が日常的に直面している現実の生活環境にかかわる問題が過小評価されてしまうようなことがないように、注意深く配慮がなされたのである。
エルサレムの市民生活をめぐる諸問題を解決するために機能主義的視点がきわめて重要であるとの認識は、エルサレム会議の議論の中枢にいたエルサレム市長コレックと都市計画小委員会委員長ペヴスナーとの間で、とりわけ強く共有されていた。このことは当時、両者の間で交わされていた手紙から明らかである。
ペヴスナーは、エルサレムでの第1回都市計画小委員会の直後にロンドンからコレックに宛てた手紙(1970年12月28日付)の中で、1968年基本計画案の内容について、それが「実際は優れたもの」(※8)であったことを認めている。
エルサレム市の都市計画をめぐって、両者の間でかなり率直な意見交換がなされていたことは、この同じ手紙の中でペヴスナーが、コレックによるエルサレム会議の人選について「必ずしも全員が(この会議のメンバーに)相応しくはなかった」、「原理・理論に偏向している人たちがやや多すぎて、現実に目を向ける人たちが足りなかった」(※9)と私見を吐露していることからもうかがえる。西側先進諸国出身の建築家、都市計画家たちがエルサレム会議の席上、「あまりに概念的・空論的主張を繰り返した」こと、そして人間の実生活にかかわる「素朴な現実が軽視ないしは無視された」ことに、ペヴスナーは不満を感じていたのである。
ペヴスナーは1930年代初頭以来、一貫して建築をはじめとする人間のデザイン行為に、一般市民の日常生活の質を向上させるのに果たし得る積極的な役割があることを主張していた。それゆえ都市計画小委員会の面々が、市民生活の実情と乖離してしまうような概念的なテーマ・原理原則や、壮大な構想を掲げることの意義に、著しく懐疑的だった。
この現実に目を向けるペヴスナーの姿勢こそが、コレックがペヴスナーに都市計画小委員会の委員長への就任を依頼した理由であったように思われる。コレックは度々、ペヴスナーに宛てた手紙の中で、エルサレムの「現実」を直視し、都市計画を通じて30万人の市民の日常的必要や要求に応えることで、紛争都市が抱える実際的な問題の解決に取り組む意志を繰り返し表明している。
ペヴスナーに宛てた1973年12月18日付の手紙で、コレックは次のように記している。
残念ながら、エルサレムのこれからの行末について、非現実的な主張を関係各方面から聞かされています。わたしは、これらの意見は、概して、〔1973年当時の〕エルサレム会議のメンバーほどにはエルサレム市の現実と雰囲気を認識していない人びとから発せられたものだと考えています。あなたがお持ちの人脈の中で、ますます広まっているそうした誤解や歪曲を解消してくださることを期待しています。わたしはエルサレム市長として、あらゆる層・集団の市民と日常的に接していますから、彼らの願望がどのようなものであれ、「誰もエルサレム市が再び分裂するような事態を望んではいない」ということを、すべての住民を代表して断言することができます。(※10)
エルサレム市民の生活環境をめぐる現実的な問題を直視し、その質の向上をめざしたコレックは、「現実に目を向けること」にこだわり続けたペヴスナーとは気心が知れた関係を構築することができたようである。
前述のとおり、モダニズムに触発されたエルサレム市の拡張・近代化計画に批判的な立場をとった人びとは、モダン・デザインがしばしば生み出す均質性と徹底した合理性を問題視していた。彼らは一様に、世界の至る所で同じような無味乾燥な近代都市が立ち現れた20世紀中葉の現実に幻滅していたのである。
一方、エルサレム市民の日常生活の利便性や質の向上を重視した人びとは、モダン・デザインにまったく異なる可能性を見出していた。モダン・デザインは機能主義に徹することで、異質な価値観や慣習が共存できる生活環境を実現する「寛容性」を生み出し、その結果、宗教的・民族的なダイバシティを冷静に許容する生活共同体が形成される、と考えたのである。
エルサレム会議が数年おきに断続的に開催されていた最中の1972年、ペヴスナーは米国ミシガン大学建築・デザイン学部において、「思いやりのある芸術としての建築」(‘Architecture as a Humane Art’)と題した講演を行った。この講演の中でペヴスナーは、優れた生活環境の実現は、生活者の声と必要に謙虚に聞き、無数の名も無き市民・住民のために働く建築家の肩にかかっていると説いた。そして建築家が自分の才能を過信して、一般の人びとを見下し、生活者のニーズ・必要に誠実に応えることなく、むしろ彼らを教え諭すような態度で、自らの著しく個性的な作風の追求に固執することを非難した。ここでペヴスナーの言う「無数の名も無き市民・住民の声に謙虚に聞き、そうした声に応えようとする建築家の姿勢」とは、言い換えれば、建築家個人の主義主張を前面に出すことを控え、個々の仕事・設計について、「それぞれの場合をそれぞれのメリットにもとづいて」、機能的な観点から判断することで、そこに住み、活動する人びとの生活環境をより良くするために奮闘することを意味した。
この講演からは、1970年代初頭のこの時期、エルサレム会議都市計画小委員会を率いていたペヴスナーが、モダン・デザインの精神としての機能主義に福祉社会(多様な環境に生きる市民が、心身ともに健やかで文化的な生活を保障されている幸福な社会)を実現するための鍵を見出していたことが読み取れる。
ペヴスナーが「それぞれの場合をそれぞれのメリットにもとづいて」判断しようとする謙虚さの大切さに言及したのは、1970年代がはじめてではなかった。
ペヴスナーは、エルサレム会議都市計画小委員会の委員長として招聘を受ける10年以上前、1956年に『イングランド美術のイングランド性』(Englishness of English Art)を出版し、その中で「それぞれの場所を『それぞれのメリットにもとづいて』扱う」という行動の原理に着目していた。ペヴスナーによれば、それは「何か深遠なまでにイングランド的」な行動原理であり、「抜きんでてイングランド的なものごとの対処の仕方」でもあって、「寛容の原理が適用されたもの」であった。ペヴスナーは、こう記している。
「それぞれの場合をそれぞれのメリットにもとづいて」ということは行動における寛容の原理とも言えるであろうし、寛容ほど、望ましいイングランド的な要素も少ない。(※12)
ペヴスナーは、この「寛容の原理」の源流がジョン・ロックが1689年に無血革命直後のイングランド社会を強く意識して著した『寛容に関する書簡』(Epistola de Tolerantia, Gouda, Holland, 1689 / A Letter Concerning Toleration, London, 1689)にある、と指摘する。
ロックは『寛容に関する書簡』の中で、「教会・宗教の役割」と「政治的共同体および為政者の役割」との間に境界線を引いて、「魂の救済」は教会に、「人的共同体の現世的利益にかかわるさまざまな行為」は為政者に、それぞれの任務・役割を明確に区別することの重要性を指摘した(※13)。このとき「政治的共同体」とは、「もっぱら各人の現世的利益を確保し、維持し、促進するために構成された人間の社会のこと」(※14)であり、「〔人間の〕現世的利益」とは、つまり「生命、自由、健康、身体的苦痛からの解放、そして貨幣、土地、家屋、家具等の外的な事物の所有のこと」(※15)を指していた。
ナチスの台頭を直に目撃した青年時代、ペヴスナーは、歴史家とは現代社会の諸問題と決して無関係にはいられない存在である、と確信することになった。彼は、「過去の出来事やものごとの考え方に関する知識」を用いることで、歴史家は現代の思想に積極的な役割を果たすことができる、と信じたのである(※16)。そうしたペヴスナーが、宗教的、民族的対立の様相を色濃く残した戦禍の中のエルサレムに、17世紀末のイングランドの宗教的・政治的争乱期に端を発した「抜きんでてイングランド的なものごとの対処の仕方」に通じる態度――すなわち現世的な福祉の実現のための「寛容な態度」――の必要性を感じとったとしても不思議なことではあるまい。
ロックに遡る「寛容の論」は、エルサレムの近代化をモダン・デザインの機能主義的視点から構想し実行することの正当性を示す論理的根拠に十分になり得た。
エルサレム会議都市計画小委員会が重視すべきは、それが「政治的共同体」であるエルサレム市当局とその「為政者」であるところのエルサレム市長に対して答申する諮問組織であるということであり、その役割は市民社会における「現世的な福祉」を向上させること、すなわち生命、自由、健康、身体的苦痛から市民を解放し、貨幣、土地、家屋、家具等の外的な事物の所有など、共同体を構成する市民の現世的利益を確保し、維持し、そして促進させることであった。
宗教的、民族的背景や、政治信条の異なる複数の集団が集住する共同体としてのエルサレム市を、カーンやジョンソンが主張したような概念的な「統一テーマ・原理原則」や壮大な構想の下に一体的に整備・開発することは、異なる宗教と慣習を持つ多様性に富んだエルサレム市民の日常生活における自由や権利、必要、現世的な福祉をひどく軽視する恐れがあることは明白であった。建築家、都市計画家、デザイナーは、現世的な利益や所有について個人あるいは共同体が保持する自由のために、そして福祉社会・幸福社会の実現のために働くべき存在であり、特定の主義主張・構想の遂行を図ることは、その職責を放棄していることに等しかった。都市の近代化を実現しようとするうえで、彼らがなすべき仕事は、自分が正しいと信じる主義主張や構想への従属を不特定多数の市民・住民に強いることでは決してなく、その都市に生活する不特定多数の人びとの日常活動に可能な限り適した生活環境、すなわち無数の名も無き市井の人びとのために機能する福祉社会をデザインすることであった。彼らの仕事の真価は、その壮麗さや建築論的革新性によらず、市民・住民の生活上の要求と必要に機能的に応え得ているかという一点において測られるべきであった。
前述のとおり、1969年の第1回エルサレム会議は、エルサレム市が「博物館」「演劇の舞台」のような状態になってはならず、それは日々生まれる現実の新たな課題・必要に対して機能的な解決が図られる「生きた(成長する)都市」(a living city)であり続けなければならないことを確認していた。
1973年、エルサレム市は、ユダヤ系英国人の高名な都市計画家ナサニエル・リッチフィールドを主任都市計画家に任命した。リッチフィールドは、都市計画や交通網整備、都市開発といった公共事業にかかわる地方自治体や中央政府における諸委員会の委員長を歴任していて、公共事業の諸分野で改革推進派と伝統・保存重視派との間に生じる意見対立の仲裁に秀でた手腕を発揮してきた人物であった。
リッチフィールドは1973年6月、第2回エルサレム会議の全体会議を前に、「エルサレムの精神性と性格に適した都市計画」(‘Planning for the Spirit and Character of Jerusalem’)と題した梗概を準備して、コレックに郵送している。その中で彼は、エルサレムの一般市民の実際的な必要・要求に的確に応えようとする機能主義の視点の大切さを強調することを忘れなかった。
エルサレムの都市計画では、2つの異なる視点を、念頭に置いておかなければならない。第1に、エルサレムは、他の都市と同様、人びとが洗練された方法で居住し、働き、教育を受け、余暇を楽しむことができる場所でなければならないということ。そして第2に、世界中で、そして歴史を通じてこれまで見做されてきたとおり、エルサレムは、特別な精神と性格を有した都市である、ということである。(※17)
「エルサレムの精神性と性格に適した都市計画」と題した文書であっても、エルサレムの持つ記念碑性の問題以前に、そこで生活する人びとの日常の必要に応えることが都市計画の第一の目的であることが念押しされたのである。
リッチフィールドを主任都市計画家として迎えた第2回エルサレム会議では、次のような指摘を盛り込んだ決議が採択された。
本会議は、エルサレム市に居住するさまざまな集団の生活水準を高め、社会的格差を埋めるための、継続的な努力が必要であることを認識する。東エルサレムにおける改善された公的サービス、住宅、福祉、下水などの提供が、優先的に取り組まれていることは、心強いことである。エルサレム会議は、自治体当局がこれらの問題における責任を自覚し、これらの問題にかかわるいくつかの事業がすでに着手されていることを評価し、ここに書き留めておきたい。(※18)
こうした考え方をはっきりと表明し、都市計画家として機能主義の姿勢に忠実だったリッチフィールドを、ペヴスナーは「リッチフィールド以上に優れた都市計画家を見つけることは不可能だったでしょう」(※19)と述べて、非常に高く評価した。
続く第3回エルサレム会議では、以下のような文章が会議後採択された決議に含まれた。
本会議は、都市社会計画に向けた市当局の継続的な取り組みを支持する。そうした取り組みは、特に、「〔エルサレム市を画一的に発展させるのではなく、多様性が入り混じる〕「モザイクのような状態をめざすアプローチ」の推進を目的とした、近隣地域の感覚や地域社会の結びつきを維持するさまざまな措置を基に実施されている。地域社会における生活の多様性を促進し、地域の遊び場、小さな公園、小さな緑地、学校、図書館、その他のコミュニティ施設など、物理的な意味における開発発展を実現するうえでエルサレム市当局と協力する、近隣地域の自治委員会の役割は、強化されなければならない。
現行すでに機能している近隣地域の自治委員会に、今後適切な時期に、より一層公的な位置づけを付与することを検討することで、この都市をめぐる計画および開発への市民参加をさらに強化することを、エルサレム会議は勧告する。(※20)
エルサレム会議は、多宗教・多民族が「モザイクのような状態」で共存する都市生活環境を維持するために、市民が日常直面する諸課題に機能的に対処して生活の質を向上させることを重視したのだった。
エルサレム会議の発足からおよそ10年、1980年に『エルサレム―問題点と展望』(Jerusalem: Problems and Prospects)と題した書籍が刊行された際にも、コレックはその序文に次のように記した。
エルサレムにおける人びとの生活の質を向上させるための都市計画に、わたしたちは今真剣に取り組んでいる。(※21)
エルサレム会議都市計画小委員会が重視した「機能主義」とは、装飾を一切排除したモダニズム建築の形態と空間を、不寛容に、そして教条的にエルサレム市民に押しつけるようなものではなかった。それは、機能主義の精神に立って、市民の日常生活の質を向上させ現世的な福祉の実現に具体的に寄与する機能的なデザインを実践しようとする挑戦であった。
国際的な枠組みの中でエルサレムの将来を議論した意義は、中東戦争の戦禍の只中にあって、多宗教・多民族都市エルサレムにおける現世的福祉の促進をめざし、人が「人間らしく生きるための生活環境」を生み出そうとするモダン・デザインの機能主義の精神に、エルサレム近代化の活路を見出すことができた点にあったと言えよう。
※1カーンの重厚で壮大な象徴性を追求した設計案は、結局実現をみることはなかった。
※2‘Planners under Fire’, Jerusalem Post, December 25, 1970.
※3Cf. ‘Experts condemn plan for rebuilding Jerusalem’, The Times, December 24, 1970.
※4Richard Meier, ‘Planning for Jerusalem’, Architectural Forum, April 1971, p. 56.
※5Lewis Mumford, ‘Memorandum on the Plan for Jerusalem’. https://placesjournal.org/article/lewis-mumford-on-the-plan-for-jerusalem/ (Accessed May 19, 2023)
※6‘Final Statement: The Jerusalem Committee Townplanning Subcommittee, December 19-21, 1970’, p. 2.
※7Ibid., p. 3.
※8The Getty Research Institute, Research Library, Special Collections.
※9The Getty Research Institute, Research Library, Special Collections.
※10The Getty Research Institute, Research Library, Special Collections.
※11大阪大学大学院人文学研究科美学研究室編『a+a美学研究(特集「未来をつくる思想」)』14号(2023年)所収の拙論「デザインと寛容の問題─N・ペヴスナー、J・ロック、そしてエルサレム会議から考える」(120-143頁)より。
※12ニコラウス・ペヴスナー『英国美術の英国らしさ—芸術地理学の試み』蛭川久康訳、研究社、2014年、186頁。訳文は一部改変した。
※13ジョン・ロック『寛容についての手紙』加藤節、李静和訳、岩波書店、2018年、19-20頁および26頁。
※14同上書、20頁。
※15同上。
※16Pevsner, »Kunst und Staat«, Der Türmer, May 1934, S. 514.
※17Nathaniel Lichfield, ‘Planning for the Spirit and Character of Jerusalem’, 1973, p. 9.The Isamu Noguchi Archive, https://archive.noguchi.org/Detail/archival/51505 (Accessed June 26, 2021)
※18‘Resolutions Passed by the Second Plenary Session of the Jerusalem Committee’, June 1973, p. 2.
※19ペヴスナーがコレックに宛てた1973年7月16日付の手紙より。The Getty Research Institute, Research Library, Special Collections.
※20‘Resolutions: The Jerusalem Committee Third Plenary Meetings’, December 1975, p. 3.
※21Teddy Kollek, ‘Introduction: Jerusalem Today and Tomorrow’ in Joel Kraemer, eds., Jerusalem: Problems and Prospects, New York: Praeger Publishers, 1980, p. 12.
藝術学関連学会連合事務局
横道仁志 esthe{at}let.osaka-u.ac.jp