人工知能と芸術―
メディアアートは主体をどのように扱ってきたのか

伊村靖子意匠学会推薦|国立新美術館 情報資料室長

1.はじめに

近年、生成AIが注目されるようになった背景には、膨大なデータからルールやパターンを見出し、条件に応じて出力する機械学習の精度が上がったこと、そしてOpenAIが2022年に公開したChatGPTなどに代表されるように、アプリケーションが汎用化したことが挙げられる。個人がプログラムコードを含むテキストや画像、音声、音楽、動画などを生成し、創作に用いるハードルが下がったことにより、作り手だけでなく受け手も同じ創作の環境を共有するようになってきたこと、そしてインターネットを通じて創作物が公開され、何らかの影響を及ぼすことを条件に、広く関心を集めていると言える。つまり、人工知能の概念ではなく、技術が汎用化し、人工知能をめぐる状況が変化したことに留意する必要があると考えられる。

生成AIを含む表現の論点の一つに、AIを創作における他者と見做すかどうかという点が挙げられる。その意味では、人工知能研究と並行して「主体」のモデルそのものが問い直されてきたことも注目すべき点ではないだろうか。今回の講演では、生成AIが注目される以前から、汎用化していく技術に対する応答としてメディアアートが「主体」とどのように向き合ってきたのかを振り返ることとする。具体的には、グローバル化し、技術に媒介された社会における問題設定として「ポストヒューマン」(註1)を想定し、ポスト人間中心主義の表象として、ロボットやサイボーグ、人工生命のシステムのような非人間的であると同時にハイブリッドな生命の形式が「主体」に及ぼした影響について考えてみたい。

2.人工知能とメディアアート

生成AIをめぐって、「人工知能」と「メディアアート」という2つの論点を掲げる理由について先に触れておく。まず、生成AIを、テキストや画像、音声などを生成する「ツール」として捉えるのでなく、機械学習モデルのひとつとして捉えることで、1950年代後半からの人工知能研究に遡って考えることができる。人工知能研究は、1956年のダートマス会議で提唱された記号計算主義型AIモデルに始まり、パーセプトロンに代表されるような脳神経反応を人工的に模倣することによる学習モデル、遺伝的アルゴリズムの研究などから様々なモデルを生み出した。その知見は、現在のロボティクスや神経科学、遺伝子工学、それらを背景とするビジネスにも結びつくが、芸術に対しては「人間の知覚・認知の仕組みの捉え直し」、「生命のモデル」といった観点をもたらした。

あるいは、「システム」を起点にすることで、観客との関係性を含む「インタラクティヴ」、演算による「ジェネラティヴ」などの美学をもたらしたと言っても過言ではないだろう。80年代から90年代のメディアアートは、こうした学習モデルと接点を持ちながら、環境のシミュレーションやマン・マシン・インターフェースを考え、形にしていくところに、領域を横断した役割があったのではないかと考えられる。 「環境のシミュレーション」「マン・マシン・インターフェース」両方の要素を含む例として、クリスタ・ソムラーとロラン・ミニョノーの《Interactive Plant Growing》(1992)、《A-Volve》(1994)を挙げることができる。《Interactive Plant Growing》は、手前に植物が配置され、奥のスクリーンにCGによる植物の成長のモデルが投影される作品である。植物そのものがインターフェースになっており、鑑賞者が植物に触れることで、スクリーンに映し出される仮想の植物を成長させることができる。

仮想の植物は、60年代末に提唱された「Lシステム」と呼ばれる生物の発生分化のモデルを参考にしたアルゴリズムに基づいており、作品としてはそこに観客のインタラクションが加わることにより差異が生まれ、人間と自然、コンピューターの関わりや生体情報としての植物、身体について考えさせる構造を持つ。いっぽう《A-Volve》は、人工生命(Artificial Life)をテーマとする作品で、手前の小型ディスプレイ上で鑑賞者が生物の正面・側面観を描くと3Dの仮想生物のモデルが生成され、前方のプール型のスクリーンに現れる。そこでは複数の生物を同時に泳がせることができ、生物どうしが出会い捕食関係となったり、子孫を残すなどの行動が見られる。遺伝的アルゴリズムを取り入れた作品で、突然変異や染色体の組み替えに相当する機構が組み込まれ、環境に応じて変化していくシステムが軸になっている。当時はどちらの作品も観客参加型の要素に注目が集まっていたが、それだけが作品の本質ではない。今振り返ると、進化のモデルや制御としての側面が強い印象も受けるが、身体を情報として捉える観点や主体の境界の曖昧さについて考えさせられる作品である。

3.システムとしての芸術

ソムラーとミニョノーは、『レオナルド』(1999年6月号)にこれらの作品について述べた文章「Art as a Living System : Interactive Computer Artworks(生命体としての芸術―鑑賞者との相互作用をもたらすコンピューター・アート)」を発表している。そこには作品概念や作家としての立場が端的に示されている。

Creation is no longer solely understood as an expression of the artist’s inner creativity, but instead becomes an intrinsically dynamic process. Linking the interaction of human observers (visitors) directly to the dynamic and evolutionary image processes of an artwork allows us to create artworks that are under constant change and development.

Christa Sommerer and Laurent Mignonneau, “Art as a Living System,” Leonardo, vol.32, no.3 (June 1999) pp. 165.

創造はもはやアーティストの内面的な創造性の表現として理解されるのではなく、本質的にダイナミックなプロセスとなった。人間の鑑賞者の相互作用を作品の動的かつ進化的なイメージの生成過程に直接結びつけることで、絶え間ない変化と発展のもとで作品を制作することが可能になった。

「Art as a Living System」というタイトルに示されるように、ソムラーとミニョノーは作品を開かれたシステムとして捉えようとしている。システムを提示し、そこから生成し、鑑賞者の関係性も含めて変化するプロセスを作品として観察していく彼らの考え方は、95年にニクラス・ルーマンが「Art as a Social System :The Function of Art and the Differentiation of the Art System(社会システムとしての芸術―芸術の機能と芸術システムの分化)」において述べた芸術の機能とも通じるものと考えられる。

In a domain such as art (just as for law, science, politics, and so on), we discover not unique traits of art but features that can be found, mutatis mutandis, in other functional systems as well – for example, the shift to a mode of second-other observation. Art participates in society by differentiating itself as a system, which subjects art to a logic of operative closure – just like any other functional system. […]

Modern art is autonomous in an operative sense. No one else does what it does. The social nature of modern art consists in its operative closure and autonomy. […]

Niklas Luhmann, The Function of Art and the Differentiation of the Art System, (Frankfurt am Main, 1995); trans. Eva M. Knodt (Stanford: Stanford University Press, 2003) pp.133-83.

芸術のような領域では(法律、科学、政治などと同様に)、芸術に固有の特徴ではなく、他のシステムにも準ずる特徴、たとえば、第二の観察モードへの移行を見出すことができる。芸術はそれ自身をシステムとして差別化することによって社会に参加し、それによって芸術は他の機能的システムと同様に閉じた演算の論理に従属させる。[中略] 現代美術は操作的な意味で自律的である。他の誰もそれをしない。現代美術の社会性は、その閉じた演算と自律性にある。(筆者訳)

The differentiation of the art system - a process characterized simultaneously by continuity and discontinuity - allows the relation between system and environment to be reintroduced into the system in the form of a relationship between self-reference and hetero-reference.

Ibid., pp.133-83.

芸術システムの差異化—連続性と不連続性によって同時に特徴づけられるプロセス—は、システムと環境との関係を、自己言及性と他者言及性の関係という形でシステムに再導入することを可能にしている。(筆者訳)

90年代にプログラミングによって、文字通り自律的かつ演算による「システム」を提示し、観客の行為を促したのが、メディアアートの特徴だと言っても過言ではないだろう。参考として、1968年に遡り、批評家、キュレーターのジャック・バーナムが『Artforum』誌において発表した「System Aesthetics(システムの美学)」を参照すると、「システム」という言葉が美術批評に取り入れられた背景が見えてくる。

We are now in transition from an object-oriented to a system-oriented culture. Here change emanates not from things but from the way things are.

Jack Burnham, “Systems Aesthetics,” Artforum, vol.7, no.1 (September 1968) pp. 30-35.

私たちは今、モノからシステムを指向する文化へと移行している。ここでの変化は、物事からではなく、物事の在り方から発せられるものだ。(筆者訳)

この一節が述べられた背景には、同時代の美術動向の変化が関与している。バーナム自身がそれをどのように捉えていたかがわかる箇所を引用によって参照する。

A polarity is presently developing between the finite, unique work of high art, i.e. painting or sculpture, and conceptions which can loosely be termed ‘unobjects’, these being either environments or artefacts which resist prevailing critical analysis. This includes works by some primary sculptors [minimalists] (though some way reject the charge or creating environments), some gallery kinetic and luminous art, some outdoor works, happenings and mixed media presentations. Looming below the surface of this dichotomy is a sense of radical evolution which seems to run counter to the waning revolution of abstract and non-objective art.

Ibid., pp. 30-35.

現在、絵画や彫刻のような有限で唯一無二のハイ・アート作品と、批評的な分析に抵抗する環境や人工物の形式をとった「非オブジェ」と呼ぶことができる概念との間に極論が展開されている。「非オブジェ」には、主要な彫刻家(ミニマリスト)の作品(環境を創造することを拒否するものもあるが)、ギャラリーで発表される動く彫刻(キネティック・アート)や光る彫刻、屋外での作品、ハプニングやミクストメディアなどが含まれる。この二分法の表面下には、急進的な進化の感覚が潜んでいる。(筆者訳)

Increasingly ‘products’ – either in art or life – become irrelevant and a different set of needs arise: these revolve around such concerns as maintaining the biological livability of the Earth, producing more accurate models of social interaction, understanding the growing symbiosis in man-machine relationships, establishing priorities for the usage and conservation of natural resources, and defining alternate patterns of education, productivity and leisure. In the past our technologically-conceived artefacts structured living patterns. We are now in transition from an object-oriented to a system-oriented culture. Here change emanates not from things but from the way things are.

Ibid., pp. 30-35.

芸術においても生活においても、ますます「プロダクト(生産物)」は無意味になり、新たな必要性にせまられている。それは、地球上の生命の生存能力を維持していくこと、より正確な社会的相互作用のモデルを生成すること、人間と機械の共生関係が成長していくことを理解すること、天然資源の利用と保全の優先順位の確立、教育、生産性、余暇の代替パターンの定義などの懸念を中心に展開されている。過去には、技術的に考えられた人工物が生活パターンを構成していた。私たちは今、モノからシステムを指向する文化へと移行している。ここでの変化は、物事からではなく、物事の在り方から発せられるものだ。(筆者訳)

バーナムの言葉にあるように、システムという用語もまた、90年代に突然見出されたものではなく、概念として60年代から浸透し始めていたことがわかる。先ほどソムラーとミニョノーの作品について論じる際に用いた「環境」という用語も、60年代に見出されており、通信工学と制御工学を背景とするサイバネティクスへの関心が起源の一つと考えられる。

4.メディアアートは主体をどのように扱ってきたのか―分裂的な「主体」

これまで、システムという観点から人工知能と芸術の関わりを考えてきたが、機械学習の範疇以前に、そもそも人間や社会をシステムとして捉える発想において「主体」はどのように扱われてきたのだろうか。例えば、マーヴィン・ミンスキーが提示した「テレプレゼンス」「エージェンシー」といった概念は、人間中心的な「主体」を分裂させていくモデルとして、注目されてきた。(註3)いっぽうで、アーティストは分裂的な「主体」を作品化し、他者との境界に問いを投げかけ続けているのではないだろうか。今回はその事例として、三輪眞弘の《赤ずきんちゃん伴奏器〜メゾソプラノとコンピューター制作による自動ピアノのための》(1988)、藤幡正樹の《Light on the Net》(1996)について考えてみたい。

三輪眞弘の《赤ずきんちゃん伴奏器〜メゾソプラノとコンピューター制作による自動ピアノのための》(1988)は、グリム童話の「赤ずきん」に基づく歌詞をメゾソプラノの歌手が歌う作品である。歌手は赤ずきん、狼、(楽譜には魔女と書かれているが)狼に食べられたおばあさんの声を使い分けながら歌う。システム構成図にあるように、歌手の声はピッチ検出用の「Roland VP-70」を通して、コンピューター「ATARI-ST(C言語)」で処理され、その都度リアルタイムに生成される楽譜によって「MIDI-Piano」が伴奏を演奏する構成になっている。もう一つの特徴として、当時、電子音楽作品は、専門の電子音楽スタジオで作曲されることが一般的であったが、この作品は民生機器の組み合わせで作曲、演奏されている。88年の初演以来、ヨーロッパを中心に、少なくとも22回は演奏されており、演奏の機会が多い作品であるが、YAMAHAが自動演奏ピアノの発売を開始した時期と重なったことも、安定した演奏の機会が得られた一因と言えるだろう。自動演奏ピアノとの掛け合いが演奏の見どころで、物語がクライマックスに差し掛かる時、赤ずきんのセリフが「Roland VP-70」の取り扱い説明書にすり替わっていくという仕掛けがあり、自動演奏から想起される身体の不在や、コンピューターが生成する伴奏に合わせて歌う行為から、人間と機械のハイブリッドな関係を考えさせるなどの要素がある。

藤幡正樹の《Light on the Net》(1996)は、慶應義塾大学藤幡正樹研究室と財団法人ソフトピアジャパンの共同研究として、岐阜県大垣市のソフトピアジャパンセンタービルのエントランスに設置された筐体と、ウェブサイトから構成された作品である。鑑賞者は、ウェブサイトにアクセスし、ソフトピアジャパンセンタービルに設置された7×7のグリッド上に配置された電球の画像を見ることができる。鑑賞者が電球の上にカーソルをかざすと手の形をしたアイコンが現れ、電球を灯すことができるようになっている。電球が点灯しているところに触ると、電球を消すことができるという仕組みになっている。ただし、現在のようなストリーミングの技術がまだ存在していなかった時代なので、鑑賞者が電球を点けよと指示をして電球が点き、その写真を撮って、鑑賞者に送る処理に4秒かかり、インターネットの処理速度を含めて全体で10秒から15秒ほどかかっていたのだそうだ。

この様子は、ソフトピアジャパンセンタービルに設置された筐体に反映されており、現地にいる人も電球が点いたり消えたりする様子を見ることができた。日本ではインターネットが広く普及する前で、まだ一部の企業や大学からしかアクセスできなかった時期に制作されたインターネット作品である。インターネットは当然、現在のような常時接続の状態ではなく、仮想空間として意識されていた。インターネット越しの他者の振る舞いを想像すること、限られた数の照明をピクセルに見立てて記号を表示させることなどから、今振り返ると、インターネット上の原初的なコミュニケーションを想像させる作品である。(註4) 三輪と藤幡の作品は、汎用化していく技術を用いている点で共通しており、前者において「主体」を脅かす他者が想起され、後者においては他者への想像力が貫かれているところに現在に通じる問題をはらんでいるように思われる。

5.生成AI時代の芸術―まとめにかえて

以上の作品の延長上に生成AI時代の芸術を考えるならば、二つの論点が挙げられる。まず、生成AIは発展プロセスを伴う技術という点が挙げられる。生成される結果に対して人間が価値判断を行うが、それと同時に、入力された情報はシステムの「精度」を改善するために機械学習に利用されるというプロセスを持っている。つまり、生成AIには、プログラム自体がもつ特徴、入力を行う複数の主体を含めた「他者」との共創が不可分の状態で含まれている。そのため、創作の主体をどのように考え、何をもって他者とみなすかが共通の関心事となっていると考えられる。この問題系は、個人情報の取り扱いや著作権のような実質的な問題につながる他、美術史の観点で「他者」をめぐる問題は、1960年代に遡り、いわゆる「レディメイド」における作家の署名性や発注制作における他者性、そして集団による表現(コレクティヴ)、音楽における偶然性に対する関心においても論じられてきたと考えることができる。

次に、流通・受容までを含めた観点として、生成物による社会的インパクトが挙げられる。ディープフェイクによるフェイクニュース、デマ、プロパガンダ、詐欺、ポルノなどの流通がその例と言える。生成AIの影響力とは、インフラストラクチャーに組み込まれることにより、個人に直接働きかける実効性、本物/偽物、人間/機械などの判別不可能性から「主体」を揺るがしている点にある。つまり、生成AIはグローバル化し技術に媒介された社会の中で「価値判断の攪乱」が起きていることを端的に示すという点で、今日の「主体」を考えさせる主題となっているのではないだろうか。

註1Rosi Braidotti, The Posthuman, Polity, 2013. ロージ・ブライドッティ(著)、門林岳史(監訳)『ポストヒューマン 新しい人文学へ向けて』(フィルムアート社、2019年)

註2Gerfried Stocker, Christa Sommerer, Laurent Mignonneau (ed.), Christa Sommerer, Laurent Mignonneau: interactive art research, Springer, 2009.

註3Marvin Minsky, The Society of Mind, William Heinemann Ltd, 1987. マーヴィン・ミンスキー(著)、安西祐一郎(訳)『心の社会』(産業図書株式会社、1990年)

註4拙稿「情報技術は他者との関わりをどうデザインするか 第1回 藤幡正樹《Light on the Net》の再制作を通じて見えてきた、インターネット越しのコミュニケーション」において《Light on the Net》展示風景を見ることができる(2024年11月14日閲覧)。
» https://mediag.bunka.go.jp/article/article-16764/

なお、同作品は「岐阜おおがきビエンナーレ2017」において再展示を計画し、「清流の国ぎふ」文化祭2024を契機にIAMAS附属図書館に設置された。再展示をめぐる議論および2024年版は以下より参照できる(2024年11月14日閲覧)。
» Journal_of_IAMAS_Vol.9.pdf
» Light on the Net

藝術学関連学会連合事務局

大阪大学大学院文学研究科美学研究室

横道仁志 esthe{at}let.osaka-u.ac.jp