Art in the Age of Generative AI
サイドプロファイル顔
エミール・ノルデ風絵画
ベクター画像
スチームパンク
美術史的表現
2024年6月1日(土) 13:00〜17:00
東洋大学赤羽台キャンパス
WELLB-HUB2 / HELSPO HUB-3
HELSPOホール
入場無料/事前申し込み不要
【趣旨説明】
生成AI時代の芸術を考える
近藤存志|意匠学会・藝術学関連学会委員|東洋大学
生成AI(Generative AI)の登場は、現在、わたしたちの日常に急激な変化をおよぼしています。
芸術学関連諸分野も例外ではないでしょう。生成AIを活用した教育システムの開発が導入され日々進歩している今日、その影響は音楽、映像、演劇、デザインなど芸術創造の現場、クリエイティヴ産業における経済活動、そして芸術教育と芸術学研究にも現れています。
膨大な情報・データを学ぶことで規則性や関係性を導き出し、新しいルールを形成、そこに新たな情報を付与することで新しいコンテンツを生成する。——生成AIが新しいコンテンツを生み出すプロセスは、わたしたちが日常行っている判断や発想と似ている面もあるかもしれません。
こうした新しい技術の登場に、「芸術」はどう向き合うのか。あるいはこうした新しい技術が生み出され進歩を続ける時代に、どのような「芸術」が生み出され、どのような「芸術活動」が展開されているのか。——藝術学関連学会連合第18回公開シンポジウムでは、新しい技術が、進歩・変化を続ける時代における「芸術」、そして「芸術」の創造者にして享受者たるわたしたち「人間」に焦点を当てたいと思います。
「利用・活用」「共存」「否定・禁止」といった新技術に対するわたしたちの態度・姿勢の問題から、芸術創造の現場で今起こっていること、そして生成AI時代に美的判断を下す知能と美的判断の人為性の意味について問い直す試みまで、生成AI時代の「芸術」についてさまざまな視角から考えたいと思います。
今から80年前、建築史家ニコラウス・ペヴスナーは、次のようなことばを記しています。
建築は材料や目的による生産物ではなく──また社会的条件によるのではなく──まさに変化する時代の、変化する精神の生みだすものである。社会的生活、宗教、学問、芸術にみなぎっているのは、時代精神である。(1)
ある時代の精神──Zeitgeist──は、その時代を生きる人びとのさまざまな知的探究、多種多様な芸術創造、そして多彩な社会的活動にあまねく浸透し、著しい影響を残す、とペヴスナーは主張しました。
美学、美術史から、デザイン、演劇、舞踊、映像、音楽まで──芸術学関連諸領域を幅広く網羅する藝術学関連学会連合は、多彩な芸術文化領域に広く深く浸透して驚くほど豊かな着想と新しい表現手段、さらには学問的争点を提供する「時代の精神」「時代の特性」について考える最適な機会であると思います。
人間の芸術創造の歴史は、社会を急激に変化させる発見や新しい判断基準の萌芽に幾度も直面しながら、変遷を遂げてきました。現代社会に意識的に、また無意識的に起こっている変化もまた、人間の芸術創造に影響を与えているに違いありません。
「素晴らしいことに、今日あなた方が巨匠と呼ぶ全ての人びとのうちでひとりとして自分の生きた時代を率直に、そして偽りなく描くことをしなかった者はいない。」(2) ──ジョン・ラスキンが語ったこのことばは、人間の芸術創造行為が、現在進行形の社会に生まれる新しい変化と常に密接にかかわり続けてきたことを言い表しています。
ラスキンが語った〈芸術〉と〈現代〉の〈分かち難い関係性〉に触発されて、このシンポジウムでは、生成AIに代表される新技術が急速な発展を遂げ、日々変化を続ける「わたしたちの時代」の「芸術」、そして「時代」と「芸術」の関係について考えたいと思います。
(1) ニコラウス・ペヴスナー『新版ヨーロッパ建築序説』(小林文次他訳、彰国社、1989年)15頁。
(2) ラスキンが1853年11月にエディンバラにおいてラファエル前派の画家たちについて行った講演の中で語られたことば。John Ruskin, ‘Lecture IV: Pre-Raphaelitism, delivered November 18, 1853’ in Lectures on Architecture and Painting Delivered at Edinburgh in November, 1853, The Complete Works on John Ruskin, vol. 10, New York and Chicago: National Library Association, p. 116.
2010年代中頃から、生成AIを開発する複数の企業より生成AIアプリケーションの発表が相次ぎ、現時点で様々な芸術分野―パフォーマンスアート、言語芸術、音楽芸術、グラフィックや映像、インスタレーションなど視覚芸術、Web、プロダクト、ファッション、建築などのデザイン領域―に急速に導入が進んでいる。生成AIを使えば文章や画像を簡単に作成できる利便性がある一方、過去に作られた作品が色濃く反映されるため、著作権の問題も数多く発生している。独創的な作品を創造するためには使い手の技術そのものへの理解と、作品をどのように美術史、芸術文化と接続するか、そのコンセプトと工程における工夫が必要とされていると言える。
発表者は以前よりアートの創造性におけるメディア(デジタル・テクノロジー)の役割について考える中で、ハロルド・コーエン(Harold Cohen)のAARONなどアーティストが自らの芸術創造のプロセスを理解するためにコンピュータを利用する活動に注目していた。2019年にエルミタージュ美術館で開催された『Artificial Intelligence and Intercultural Dialogue』に参加したアーティスト達の作品等に刺激を受け、電気通信大学の研究室において2021年頃より生成AIを利用し始め、現在複数のプロジェクトを進めている。9軸モーションセンサーを搭載したデバイスを手で動かして記録した多数のモーションデータを機械学習して得られたCNN(Convolutional Neural Network)を用いるインタラクティヴアートのプロジェクトや、JAXAの人工衛星が撮影した太陽画像を機械学習して生成した太陽表面の黒点、粒状班の映像を組み入れたインスタレーション(つくばサイエンスハッカソン作品《太陽との邂逅》)などに取り組んできた。太陽画像を対象としたのは、磁性流体を用いる自分の作品と、規模こそ違うが、太陽が巨大な磁気現象であるからだ。
本発表では、これらのプロジェクトのきっかけとなった先行作品と、制作実践の中で見出した生成AIによる芸術の可能性、同時代のメディアアーティストの作品が提起する問題について議論する。
プロダンサーの演技動作を3次元モーションデータとして取得し、それを蓄積、加工、編集することで、ダンスの記録・保存、学習・教育、創作・上演などに応用する共同研究を25年間継続している。本発表では、創作への応用について紹介し、最後に生成AIの可能性について述べる。
モーションデータとは、3次元空間における身体動作の詳細をデジタル化したデータであり、モーションキャプチャ・システムを用いて測定する。発表者が初めてプロダンサーの演技を測定したのは1999年で、当初はクラシックバレエを対象にしていたが、2006年からはコンテンポラリーダンスにシフトした。コンテンポラリーダンスとは、特定の様式を持たず、新奇な動きを追究することで、時代の最先端の表現・表象を目指すことを特徴とするダンスジャンルである。
2001年からは「分析合成型振付」と名付けた振付手法を提案し、この手法に基づいた振付シミュレーションシステムBody-part Motion Synthesis System(以下「BMSS」)を共同開発している。分析合成型振付とは、舞踊動作を分解して多数の短い要素動作を作成し、これを再び組み合わせて新奇な舞踊動作を作り、3次元CGでシミュレーションする手法である。通常の舞踊創作は、音楽、物語、感情のいずれかを振付の契機とすることが多い。これに対し分析合成型振付は、振付の初期契機から音楽、物語、感情をあえて排除し、身体動作の魅力・訴求力から出発する創作法である。
BMSSを実際に使用して、プロのコンテンポラリーダンス振付家(以下「プロ振付家」)3人がそれぞれ作品の創作し、劇場で観客を集めてプロダンサーの演舞で上演する実験的公演を、2017、2018、2021、2023年の4回実施した。これらの公演を通して、BMSSを用いた分析合成型振付が、プロ振付家の創作にも有用であることを証明した。創作過程の観察と上演作品の分析からは、プロ振付家がBMSSの使用で新奇な振付語彙を発見していることと、振付の初期契機から排除した音楽、物語、感情の要素を創作過程で段階的に追加・回復していることが明らかとなった。
本研究では、いわゆるAIの技術は用いていない。BMSSでは、舞踊動作の3次元CGによるシミュレーションをモーションデータの比較的単純な合成アルゴリズムによって実現している。AIによる自動振付を目指さなかった理由は、アーティストの介入なしに芸術的な表現・表象は創出できないと考えたからである。とりわけ研究を始めた当初は、身体動作を表現手段とする舞踊は、テキストを手段とする文学、画像を手段とする絵画、音声を手段とする音楽以上に、AIが芸術性を獲得できないことは明白であった。
その後、モーションデータを用いた生成AIの研究が始まったが、舞踊においてコンピュータが芸術性を発揮するのは当面難しいであろう。しかし、生成AIが作り出した身体動作をそのまま作品とするのではなく、BMSSの使用と同じようにプロ振付家が取捨選択し、創作の補助ツールとして使うのであれば、舞踊芸術においても生成AIの有用性はあると考えている。
生成AIが注目されるようになった背景には、膨大なデータからルールやパターンを見出し、条件に応じて出力する機械学習の精度が上がり、汎用化したことが挙げられるだろう。これに伴い、プログラムコードを含むテキストや画像、音声、音楽、動画などを生成し、創作のために用いることが可能になった。その一方で、生成AIは発展プロセスを伴う技術であり、生成される結果に対する価値判断を人が行う必要がある上、入力した情報がシステムの精度を改善するための機械学習に利用されるという特徴がある。つまり、AIとの共創において、創作の主体をどのように考え、何をもって他者とみなすかが共通の関心事となっているのだ。最も身近な例として、個人情報の取り扱いや著作権の侵害、無断利用に関する問題などが挙げられるが、そうした実用的な面に限らず人文学の観点から考えるならば、主体の定義は時代を超えた課題であった。近年のポストヒューマンをめぐる議論もその一つと言える。その意味で、汎用化する技術を通じて主体を問い直す機運が生まれていると考えることができる。
今回のシンポジウムでは、生成AIが注目される以前から、汎用化していく技術に対する応答としてメディアアートが主体とどのように向き合ってきたのかを振り返ることとする。具体的には、グローバル化し、技術に媒介された社会における問題設定として「ポストヒューマン」(ロージ・ブライドッティ)が提示したポスト人間中心主義に加え、ロボットやサイボーグ、人工生命のシステムのような非人間的であると同時にハイブリッドな生命の形式、エージェンシーなどの概念がもたらした関心を導入する。そして、メディアアートにおいて主体や物質、生命などの基本的な概念がどのように扱われてきたのかを考察する。三輪眞弘《赤ずきんちゃん伴奏器〜メゾソプラノとコンピューター制作による自動ピアノのための》(1988)、リュック・クールシュヌ《Portrait One》(1990)、クリスタ・ソムラー&ロラン・ミニョノー《A-Volve》(1994)、藤幡正樹《Light on the Net》(1996)などの作品を通して、パーソナル・コンピューター、インターネットの草創期のメディア技術と芸術の関わりを紐解いていく。
我々は生成AIに何を見ているのか?万能の神か、悪魔の所業か?かつて夢見られてきた未来的テクノロジーの現実化か、人間が機械の道具に成り果てるディストピアの到来か?我々は生成AIが生み出す「作品」(それを作品と呼ぶならば)が、我々人間が生み出すそれと区別がつかないほどに「人間的」であることに感嘆すると同時に、何かを決定的に奪われてしまったような恐怖を覚えるのであろう。
この百数十年、芸術は(少なくともモダンアートは)「人間的」であることを放棄しようとしてきたのではなかったか。個人主体の限界を見切り、機械の眼と手を持とうとし、手仕事としてのアルスを捨て去って、機械生産やプログラミングに頼り、コントロールの喪失やハプニングの発生と戯れてきたのではなかったか。そのような一世紀を顧みるならば、生成AIによる情動的にさえ見える抽象絵画と、R.Mutt氏が作品だと名づけた大量生産品の男性用小便器との、どちらがより「人間的」であると言うことができるのだろうか。
芸術作品とは人間の手によって作られたものであるという条件が消失して一世紀以上経つ今日において、芸術の判定は、作品がその作者を名乗る本人によって作られたものであるか否か、という「真正性」によるものであると主張する者もいるであろう。しかし、R.MuttがMarcel Duchampの偽名であり、かつ男性用小便器をアメリカ独立美術家協会展に送りつけた張本人はDuchampではなくElsa Baroness von Freytag-Loringhovenであって、Duchampはそれが事件化したのちにその作者であることを僭称したという説を考慮にいれるとするならば、その「真正性」もまた事宜的なものに過ぎないかもしれない。Duchampは男性用小便器を「作った」のではなく「選んだ」ことによって20世紀の芸術にその名を轟かせることになったが、選んだのはDuchampでないのだとすれば、それでもなお美術館に飾られている便器(のレプリカたち)の価値は何も変わらないのだろうか。
生成AIにたいして人間の創造性を担保する必要性がどこまであるのかを問うためにも、この発表は芸術作品の「創造」と「鑑賞」と「価値づけ」の三つの角度から検討を加えることになる。
生成系人工知能が生み出す文書やイメージを、熟練した人間が制作したそれらから、結果を見ただけで区別することはできるだろうか? 言い換えれば、機械による出力を知識や経験に基づく人間の手作業から決定的に見分ける「眼力」や「鑑識眼」といったものは、存在するのだろうか? もしそれが客観的なテストという意味なら、この問いに対する私の答えはノーである。
だがこのことは、人工知能が人類やその文明にとって深刻な危機だといったこととは、何の関係もない。AIがやがて人類に取って代わるという予言、あるいはそれが人類文明に深刻な脅威をもたらすことを懸念したり、その開発をしばらく中止すべきだといった主張が、人工知能開発に関わる人たちの中からも呟かれることがある。しかしそれは人工知能を過大に広告するためのプロモーションであり、哲学的には非現実的な妄想である。
ポイントは、そもそもなぜ機械と人間とを競合させなければならないのか? という問いである。なぜ機械と人間との間に、何らかの存在論的な区別を置かなければならないのか? 私たちは一体いつまで「人間にしかできず機械にはできないこと」を追い求める、果てしない競争へと追い立てられなければならないのか? これらの問いの方がよほど重要であると私は考える。
人工知能はその本質においては、20世紀以降の特殊な問題などではない。「人工知能的なもの」はテクノロジーの本質にずっと潜んでいた課題であり、それはいわば人類文明の初めから、そもそも知的処理の機械化という手続きそれ自体の中に、ずっと存在していた要因なのである。それが現在、迅速で莫大なデータ処理、神経ネットワークモデル、深層学習の実現といった技術的達成を通じて、たまたま人工知能という形で私たちの前に現前しているといったことなのである。その意味では人工知能とは新しいトピックではない。AIは、人間とはそもそもどういう存在であるのかを、新たな形で私たちに問いかけているのだと思う。
AIを人間にとっての脅威として恐れることも、逆にAIなんて単に新たな道具としてうまく使えばいいのだと割り切るような態度も、ともに的外れだと私は考えている。人工知能は私たちにとって敵でも味方でもなく、それは人間とは何かという根源的な問いを先鋭化された形で私たちに突きつけている。この問いの姿を見極めることが重要なのである。
生成AIが人間の創作を代替するに至った場合、それでも著作権法は必要か。生成AIを利用して作品を制作した場合であっても、人間の創作的な寄与や関与がなく、かつ、既存の著作物への依拠性や類似性がない作品が出力された場合、それは著作権法上の「著作物」とは言えず、著作権は生じない。現時点では多くの分野において仮説的な問題設定にすぎないが、将来的には幅広く生じうる問題であろう。
著作権法は、著作物を創作した者に対して、本来は他人が自由に行える行為を制約する一定の権利(著作権)を与えている。著作権の正当化根拠をめぐっては大きく分けて2つの考え方がある。一つは自然権論、もうひとつはインセンティブ論である。
自然権論は、創作活動を行った者は、報酬としてその成果に対する権利を当然にもつという考え方である。自然権という反駁不能な命題を置くことに特徴がある考え方である。
インセンティブ論は、公共財的な性質を備える情報の利用を自由に認めると、創作の誘因に不足が生じてしまうため、法により人為的な財産権を設定するという考え方である。この考え方では社会的厚生の最大化が目的となるので、功利主義(帰結主義)の発想がその根幹にある。著作権を著作者に付与するのは、目的のための単なる手段にすぎない。
これらを前提に冒頭の問題について考えてみると、まず自然権論によれば、当然の権利を与えているのであるから、生成AIが発達しても著作権法が必要ということに変わりはないであろう。
他方、インセンティブ論からは、AI作品の利用で社会的厚生の最大化という目的が達成されるのであれば、著作権はもはや不要とも言えそうである。しかし、人間が創作したという事実は、生成AIでは代替できない。その事実は、消費者が作品の価値を享受し満足を得る上で重要な要素であるとも推測される。ある作品が「著作物」であるということは、人間が創作したという事実を法的に担保するものである。したがって、こうした需要が残る限り、インセンティブ論からも、著作権法を不要とする状況には至らないように思われる。
もちろん、一定の利用分野では、権利の負担付きの作品の利用は敬遠され、AI作品の利用が志向される傾向が生じることは予想される。また、著作権法上、ある作品が「著作物」であれば著作権があることは保証されているが、そもそもある作品が人間の創作に係る著作物であることを対外的に保証する法的な仕組みは、最終的に裁判で確定する以外に用意されていない。この点については、いずれの考え方に立つにしても、今後の課題となるであろう。
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