人間的、あまりに人間的

平芳幸浩美術史学会推薦|京都工芸繊維大学 デザイン・建築学/美術工芸資料館

生成AI時代における芸術を考えるにあたって、その可能性と問題とはどのようなものだろうか。 生成AI(Generative AI)は、アルゴリズムを用いて画像、音楽、テキストなどを生成する技術であり、芸術の分野においても大きな影響を与えています。生成AIの導入により、芸術の創造過程やその結果には新たな可能性が広がる一方で、いくつかの深刻な問題も浮上しています。 まず、生成AIは芸術の創造に新しい道を開くことができます。これにより、アーティストは従来の手法では不可能だった作品を作成できるようになります。例えば、AIは膨大なデータセットを学習し、それを基に新しいスタイルやコンセプトを生成する能力があります。これにより、アーティストは新たなインスピレーションを得ることができ、既存の芸術の枠を超えた作品を生み出すことができます。

また、生成AIは芸術制作のプロセスを効率化するツールとしても利用されます。AIを用いることで、複雑なパターンやデザインの生成が迅速に行えるため、アーティストはアイデアの実現に費やす時間を短縮できます。これにより、より多くの時間をアイデアの発展やクリエイティブな試行錯誤に充てることが可能となります。さらに、生成AIは新しい表現手法を提供します。たとえば、AIによる音楽生成では、従来の音楽理論にとらわれない新しい音楽スタイルが生まれる可能性があります。画像生成においても、従来の技法では再現できない複雑な視覚効果を持つ作品が生成されることがあります。これにより、芸術の多様性がさらに広がります。

しかし、生成AIの導入にはいくつかの問題も伴います。まず、著作権の問題があります。生成AIは既存のデータセットを学習し、それを基に新しい作品を生成しますが、このデータセットには著作権で保護された作品が含まれていることがあります。AIが生成した作品が元の作品に酷似している場合、著作権侵害のリスクが生じます。この問題は、アーティストやクリエイターにとって重大であり、法的な対応が求められる場面も少なくありません。

また、生成AIによる芸術作品の評価基準が曖昧になるという問題もあります。従来の芸術作品は、その創作者の意図や努力、スキルによって評価されますが、AIが生成した作品においては、その評価が難しくなります。作品のオリジナリティや創造性がどのように評価されるべきかについての議論が必要です。さらに、生成AIがアーティストの役割を奪う可能性も指摘されています。特に商業芸術の分野では、AIが迅速かつ低コストで作品を生成できるため、人間のアーティストの需要が減少する懸念があります。これにより、多くのアーティストが仕事を失い、生計を立てる手段が奪われる可能性があります。

生成AIは芸術の創造に新しい可能性をもたらす一方で、著作権問題や評価基準の曖昧さ、アーティストの職業への影響など、さまざまな問題を引き起こしています。これらの問題に対処するためには、法的な整備や倫理的なガイドラインの策定が必要です。また、生成AIと人間のアーティストが共存し、相互に補完し合う関係を築くことが求められます。生成AIが芸術にもたらすポジティブな影響を最大限に活かしつつ、その潜在的な問題を適切に管理することが重要です。

以上は、生成AIが芸術にもたらす可能性と問題についてのチャットGPTによる説明である。レポート課題としてはほぼ完璧な回答だと思うが、残念なのは私たちが認識していなかった可能性や問題の提示が見られないことであろう。私の発表では、ひとはなぜ生成AIの問題にこれほど心をざわつかせるのかについて、過去の事例を紐解きながら検討し、「人間的」であることの問題へと少しだけ迫ってみたいと思う。

『交響曲第1番 HIROSHIMA/現代典礼』の作曲家とされた佐村河内守の騒動について、その顛末をご記憶の方も多いであろう。一方でもはや世の中では忘れ去られてしまった出来事のひとつにもなってしまっている。佐村河内守は、全聾の作曲家として「現代のベートーヴェン」とも称された。障害を乗り越えて壮大な楽曲を制作する佐村河内の姿は多くの人々に感銘を与え、その曲は高く評価されてきたが、実際の作曲を行なっていたのは別の人物、主に新垣隆であったことが新垣本人の告白によって世に知られることになった。ヒューマンドラマに踊らされていた人々、佐村河内の神話化に加担していたマスメディアは手のひら返しで、彼の行為を「詐欺」であるかのように糾弾した。さて佐村河内守の一連の行為の何が問題であったのか。根幹にあるのは彼の虚言癖であり、自分自身で想起した音の連なりを記録して曲にまとめるという作業を自身では行わず、新垣隆に委任していたにも拘らず自分一人で作曲したかのように振る舞っていたことがある。その虚言の疑いは作曲行為にとどまらず、耳が聞こえないという障害の有無にまでひろがった。

私はここであらためて佐村河内の虚言そのものを問題にしようと思っているわけではない。生成AI時代における芸術というこのシンポジウムのテーマとの関連でわざわざこの古く下世話にも思われる事案を取り上げるかと言うと、作曲行為における佐村河内と新垣の関係を前提に見直すと、この騒動全体が生成AIをめぐる議論のほとんどを先取りしているように思われるからだ。佐村河内は作曲にあたって、いくつかのアイデアを短い言葉や図表にして新村に見せて説明したと言われている。そのアイデアをもとに新垣が音を配置するという「作曲」を行なってきたというわけだ。つまり、今日ではアイデアや漠然としたイメージはあるものの作品を制作するほどの「技術」を持たない人間が生成AIに指示して出力させるのと、まったく同じ関係性が構築されているのである。これが佐村河内守&新垣隆というような「ユニット」であれば、佐村河内が全聾であるという「設定」の道義的問題は別とすれば、楽曲制作と発表においては何ら問題は生じなかったであろう。しかし、新垣はゴーストライターであった。つまり匿名の存在であり、いわば「機械」同然の立場だったわけでだ。この問題を暴露した時に新垣が述べた言葉は印象的である。無調音楽を中心とする現代音楽の作曲者であった新垣は、佐村河内からの依頼を「一種の息抜きであった」と言いながら次のように語っっている。

「あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者だったら誰でもできる。」(週刊文春、2014年2月13日号)この言葉は、『HIROSHIMA/現代典礼』を絶賛した五木寛之や三枝成彰を皮肉ってもいる、つまり現代音楽の前衛意識が、物語に酔う小説家と調整音楽の枠から出られない作曲家を馬鹿にしている、とも理解可能なのだが、佐村河内にコケにされたことに怒る世間はそのことに気づく余裕はなかったであろう。いずれにせよ、新垣にとって佐村河内との仕事は、いくぶん個性というスパイスを効かせた機械的作業だった可能性が高い。プロの作曲家として新垣隆は、過去の様々なタイプの作品についての知識と作曲ノウハウを持っていて、そのデータを駆使して参照しながら過去作とのどれとも同じではないものをアウトプットしてきた。まさに我々が生成AIに求めている作業だったと言えるであろう。このような事例は枚挙にいとまがないほどあるはずだ。

近代以降の少なからぬアーティストたちが、機械がもたらす可能性を夢見て機械に制作を委ね、自らを機械化しようとしてきた。そこには個人としての想像力と技術の限界を乗り越え自己を拡張していこうとする欲望が一方にあり、それと同時に、天才的芸術家という古い芸術観を脱却するために、自己を自己たらしめている「個性」なるものを抹消して機械そのものへと接近しようとする欲望があった。機械テクノロジーを道具として利用し表現を拡張する実践については、このシンポジウム前半の発表で述べられた通りであり、100年前と今日とでなんら違いはない。機械や工業製品をモチーフとしたフランシス・ピカビアや工業部材と見分けがつかずに税関で引っかかったコンスタンティン・ブランクーシ、発光ダイオードや電子機器、コンピュータにロボット、時代ごとの最新のテクノロジーが表現拡張の媒体(メディア)として用いられてきた系譜の今のところの最先端に生成AIがある。

自己滅却・機械への同化というベクトルにおいては、技術的プロセスのみならず、かつて感性的判断とされてきた芸術制作における選択の数々を、外部プログラムに移行するという方法が取られてきており、その意味において、実際に機械やコンピュータが使われているかどうかはさしたる問題ではない。ファクトリーでのオートメーション、システムによる絵画や彫刻、アイ・アム・ロボットと歌うクラフトワーク。ジョン・ケージはチャンス・オペレーションについてこう語っている。

「私は作曲をします。その通り。だがどのように?私は選択をすることを断念しました。その代わりに、問いを投げかけることにしたのです。答えは、知能によってではなく、易経のメカニズムによってもたらされます。」このベクトルで生成AIがこれまでの外部プログラムと異なる要素があるとすれば、それは感性的判断という「個性」を形成してきた範疇がもはやアルゴリズムとして解析可能で機械的にシミュレートできるものでしかないという点があげられるかもしれない。

ではなぜ多くのアーティストはこのように機械へと接近していこうとしたのであろうか。それは端的に創作が「誰がやったか」によってしか判断されないという近代的な病いを抱え込んでいるからではないか。著作権もその病いの症状の一つでしかないであろう。私たちは目の前の芸術作品が「誰がやった」ものなのかわからなくなってしまった途端に判断不能に陥ってしまう。どこかに何かしらの個人の痕跡、人間的なものを探し出そうと躍起になるのだ。複製技術時代にアウラを失ってしまった作品に残されたものが署名でしかないことに気づいて、他人の絵画に自らの署名を書き入れたマルセル・デュシャンの行為は、ただの盗用であり著作権法違反に過ぎないが、美術史ではレディメイドという彼の独創的アイデアだと称賛されている。それが大した問題になっていないのは、当時デュシャンが経済的な利益を得ておらず、誰も経済的な損失を被っていないからだと思われるが、一方でレディメイドを中心としたデュシャンの現代美術への革新的な貢献の一環とみなされているからに違いない。これはバンクシーと他の落書きとの境界線と同様である。しかし、そのデュシャンのレディメイドの代表作と言われ、現代美術にその名を轟かせる《泉》がデュシャンの作品ではないという説が唱えられていて、すでに日本語版のWikipediaにも記述がある。

カナダの文学史家で伝記作家のアイリーン・ガメルが2002年に出版したエルザ・フォン・フライターグ=ローリングホーフェンの伝記の中で述べたのがその始まりだが、フェミニズム的観点からの女性アーティストの再評価の機運とともに大きく取り上げられ、研究者の間での論争にもなった。《泉》がエルザによるものなのだとすれば、男性用小便器の芸術的価値は現状と同じように担保されるだろうか。少なくともデュシャンのレディメイドの傑作という地位は保持できなくなる。さらにレディメイドそのものの意義や価値の問い直しが迫られる可能性もある。

あるいは、有名男性アーティストに不当に扱われ不遇の人生を送った女性アーティストの作品として全く異なる価値を生み出す可能性もあるだろう。これが伝統的な意味での絵画や彫刻であれば、いずれにせよ明確に芸術家の手が介在しているため、作品の真正性は物体そのものに保存されることになるが、《泉》の場合は工業製品としての便器ひとつであり、おまけに物体としての《泉》はすでに存在していない。すくなくとも、後世のレディメイド神話、現代美術へのデュシャンの影響がなければ、「便器を選んだのは誰か」など、ひとの興味を惹くテーマではない。

さらに言えば、《泉》がデュシャンの指示によってエルザが実践したものであるとするならば、コラボレーターの存在を隠して自身の完全オリジナルと主張したデュシャンはもはや佐村河内守である。想像力を最大限膨らませて、便器に記されたR.Muttという署名が、二人のユニット名であった可能性もあるが、たとえ便器を送りつけてきたのがエルザだとしても、スキャンダルを引き起こして歴史に刻ませた事件の仕掛け人はデュシャンである、だからデュシャンの作品であることに変わりはない、という非常に居心地が悪い解決がなされるのではないかと感じている。

芸術はいったいどこにあるのだろうか。物体としての便器だろうか。便器のデザインにあるのか。R.Muttという手書きの署名だろうか。便器を選んで送ったという行為か。便器を送るように告げた指示か。それとも便器を展覧会に送ったら面白いかもと思った瞬間であろうか。あるいは便器が展示拒否されたことを炎上させたことか。AIによる生成物を著作物と見なすかどうかの判断として最近文化庁が提示した「創作意図」やらというものを探すことが芸術の在りかを探すことと重なってしまっている。ちなみに著作権法では抽象的な「アイディア」は保護の対象とはならない。

デュシャンのレディメイドにおいてもっとも社会的に危険な側面、つまり他人の絵画に署名を入れたり、レンブラントの絵画をアイロン台として使ったり、コラボレーターの存在を隠匿したり、といった他者の作者性を毀損して自らの作品としてしまう(そもそも他人が作ったものという方法論)は、その危険性ゆえに革新的な芸術として称賛されてきた。アンディ・ウォーホルがファクトリーで若い子たちに勝手に作品を作らせていたり、キャンベルスープ缶は友人のアイディアを50ドルで買ったものであったり、といった作者性が散逸していく事態も、それを含めてウォーホルらしさ、デュシャンらしさ、という個性へと改修されることで価値が担保されるのだ。そのような状況では「ぼくの絵が自分のものなのか誰かのものなのかわからなくなったら、とってもすてきだと思う。ぼくがこんなやり方で描いているのは、機械になりたいからで、何でも機械みたいにやることが、ぼくがやりたいことだって感じてるんだ」というウォーホルの言葉はただ虚しく響くだけかもしれない。

さて、個々人の鑑賞、芸術経験において、その対象物を「誰が作ったか」はあまり問題ではない。無名の作家によるものでも生成AIによる制作物でも、たとえそれが誰からも共感されなくても、本人にとって良い作品は良いのであり、その人にとって芸術と呼ぶにふさわしいものであれば、それは芸術なのだ、ということに異論はない。しかしここにもまた同じ構造が横たわっていることは明らかだ。それは作者の代わりに鑑賞者の判断を芸術の根拠にしているだけであり、結局のところ「誰がやったか」を判断する自分自身に重ねて解決しているだけのことなのである。「誰かが自分の作品を芸術だと言えば、それは芸術だ」というドナルド・ジャドの有名な言葉は、芸術はどのようなものでも成立することを謳っているのではなく、芸術はどこまでいっても「誰か」によってなされるしかないことを暴露しているのだ。

生成AIによる制作が増えれば増えるほど、芸術は、誰がやったのか、というマーキングに益々固執するようになるであろう。創作者として措定される何某かの人物の著作権を中心とした人権保護の観点から重視される、この誰がやったのかというマーキング偏重は、芸術の価値へとそのまま反映されることになると思われる。その意味で、個性という限界を超克せんと苦闘を続けてきたはずの現代美術は、どれほどコレクティブであろうが協働的であろうが、人間的であることの刻印から逃れられないのだ。関係性の美学が謳われ、リレーショナル・アートが盛んになる時期が、インターネットとヴァーチャル空間の急速な進展とパラレルであることは見過ごせない。生成AIに直面して私たちが闘っていると思い込んでいるこの問題は、「人間的なるもの」の強化の今日的バージョンでしかないのだから。

藝術学関連学会連合事務局

大阪大学大学院文学研究科美学研究室

横道仁志 esthe{at}let.osaka-u.ac.jp