テレビジョンの美学
日本万国博覧会と今野勉の1970年

松井茂美学会、舞踊学会|情報科学芸術大学院大学[IAMAS]教授

万博について論じると、知らず知らずのうちにテクノ・ナショナリズムを内面化するようなことに陥りがちなので、「アート・アンド・テクノロジー」の博覧会であったにもかかわらず、リジェクトされた「アート・アンド・テクノロジー」の企画に関して話したいと思います。つまり、博覧会に排除された美学を積極的に語ることで、「芸術と万国博覧会」という主題に抵抗を試みたいと考えております。

電気通信館①

NTTの前身である日本電信電話公社は、大阪万博に際して、パビリオン「電気通信館」を出展します。電気通信館は、「人間とコミュニケーション」を主題に、導入空間と三角広場から構成されています。導入空間では、現代音楽の作曲家、湯浅譲二の電子音楽が再生されました。メインの会場である三角広場では、パンフレットによれば以下のプログラムが運営されたようです。

この広場はテレビスタジオと劇場を一緒にしたような大ホールで、三つの大きなアイドホール(Eidophor)スクリーンは、テレビの生中継により、常時遠く離れた広場に通じています。

東京の霞が関ビルの広場、京都の町角、六甲のふもと、南の島・種子島の港などが各スクリーンに映し出され、テレビディレクターの演出によりこの三角広場に集まった人々は、タレントのかもし出すコミカルなショーの中で遠く離れた広場の人達に直接呼びかけ交歓することができます。

なお、昼の1時間20分は、NHKの演出により、この広場と全国各地を結んだ生中継ショーが家庭のテレビにも送られます。[1]

コミカルなショーの実態が気になりますが、今後リサーチしてみたいポイントです。

今野勉のテレビジョンの美学①(テレビジョンとは何か)

当初、電気通信館の演出を担当予定だったテレビディレクターが、今野勉と萩元晴彦です。ふたりはTBSのディレクターとして、1960年代に意欲的なテレビ番組を立て続けに制作していました。番組は高く評価され、新聞や総合雑誌、芸術専門誌の紙面を賑わせ、自らもまたテレビジョンというニューメディアの特性に注目した表現論を展開しました。

今野はテレビジョンを次のように定義しています。

テレビジョンとは、技術的に言えば、事物を瞬時にしかも永続的に映像として空間を超えて伝送しうる電子的通信装置であることは疑いない。「瞬時に」ということは、映像の対象たる事物が物理的に経過している時間そのものとまったく一致した時間において、という意味であり、「永続的に」とは、装置に故障のない限り永遠に、ということである。極端にいえば、ひとりの赤ん坊が生まれてから死ぬまでの「時間」を、テレビは、完全に映像として伝送しうるということである。従って、この技術的特性をメディアとして具体的に実現しようとすれば、当然のこと、テレビは厖大なメカニズムであらざるをえず、それに伴う組織をもたざるをえない。即ち、表現メディアとしてのテレビは、組織でありメカニズムなのだということである。[2]

「組織」とは、放送局という会社であり、「メカニズム」とはインフラストラクチャーであるということでしょう。つまり私的な部分は無く、公共的なプラットフォームという感じではないでしょうか。

今野勉のテレビジョンの美学②(テレビジョンとは何か)

今野は人気ドラマ「七人の刑事」の演出家であり、萩元は寺山修司と共に多くのドキュメンタリーを制作し、前述の通り著名人でもありましたが、彼らは、自主的に作品を制作する芸術家ではありません。放送システムを運用するテレビ・ディレクター、つまり会社員であり、労働者であり生活者である[3]。番組制作はプログラムの遂行に他ならず、自主制作の映画監督とも異なり、日常業務として行われるドラマ制作は「ケ」の作業であり、「ハレ」の行為ではないと考えていました[4]。それゆえにテレビジョンは旧来の意味で、「芸術」とはほとんど関係がないという立場を強調していました。[5]とはいえ次のようにも言っていました。

メカニズムの生みだした制作の原理を、制作者が、創造の原理として、思想として、方法論化すること、それが、われわれに課せられた課題であり、そのことを通じて、テレビは、"未来の芸術"につながるのである。[6]

では、テレビ・ディレクターの役割とはどのようなものと考えられていたのか? 今野のインタビューから紹介します。

一九五三年から始まったテレビの歴史は、技術の歴史です。つまりエレクトロニクスの発達史として考えることができると思います。僕がテレビの世界に入った最初期、すべては生放送でした。ニュースやスポーツはもちろんですが、ドラマもバラエティ番組も、すべてが生放送だったわけです。これは誤解されているところだと思うのですが、「生放送」であることがテレビらしく面白かったわけではなくて、「テレビとは何か?」と考えたときに、技術的な制約条件として、テレビが「生放送」だったわけです。制約として「生放送」だから、編集ができない。それゆえに、いわゆる映画的な発想でドラマはつくれないと気づいたわけです。

(中略)

それで次に、「テレビ・ディレクターとは何か?」を考えてみると、技術的制約として「生放送」だから、繰り返しはきかないし、何かが起こったときにどう対応するのかという態度をあらかじめ自分の中に決めて持ってないと放送ができないわけです。それゆえに、テレビ・ディレクターとは、映像を「どう作るのか」よりも、これから起きるであろう「何事か」──六〇年代には「ハプニング」という言葉がありましたが──に対して、どう考え、どのように指示【ディレクション】できるのかという態度、言い換えれば「思想」を持つことが求められたと考えるわけです。[7]

テレビ・ディレクターは、会社員でありながら、「ハプナー」に近い存在だったのかもしれません。蛇足かもしれませんが、「ハプニング」というアラン・カプローが使用した言葉は、日本ではテレビの生放送に対する説明でも頻繁に使用されたし、1968年には「木島則夫ハプニングショー」といった番組のタイトルに用いられるくらいに普及していきます。

電気通信館② 日常的時間の共有

1968年2月、今野と萩元に電電公社は、保有するマイクロウェーブのネットを使って、万博会期中の6ヶ月間、中継映像をパビリオンに展示するというプランを提示し、このプロデューサーへの就任を打診する。放送各局が利用していたマイクロウェーブを自由に使用できるというテレビジョンのメカニズムをすべて提供するという提案なのですから、二人は即座に、「テレビ局では決して実現しえない「純粋なるテレビ」そのものの実験」であると判断し、これを受諾します[8]。おそらく大阪万博の制作で、国家規模のインフラストラクチャーを活用した「アート・アンド・テクノロジー」に取り組んだのは、実は今野と萩元くらいだったのではないでしょうか。

電電公社の企画には、今野、萩元に加えて、詩人の谷川俊太郎、映画監督の恩地日出夫が参加することになります。今野と萩元の論を中心に、「純粋なるテレビ」の計画がすすみます。

キャッチフレーズは「それぞれの場に流れる日常的時間を共有する」だった。つまり、画面の中では特別なことは何も起こらない、ということだった[9]

今野によれば、谷川が「何も起こらないことがおもしろい」と、企画を積極的に推したという。また、「何も起こらない」ということに関しては、今野が寄稿している『デザイン批評』に掲載された、アラン・ジュフロア「芸術の廃棄」を想起させるところもあります。

いずれにしても、コンセプトを怪訝に思うプロデューサーを尻目に、企画は進行していきます。

他方、「何も起こらない」ということに関して、そもそもは次のような想定があったようです。

地球の赤道沿いの都市を数個所選んで、そこから宇宙中継をやり、アイドホールで並置すれば、都市ごとの夜明けから日没までがみられ、それらはまた、地球全体の時間の相違も、刻々と映し出してくれる。A都市がまさに日暮れんとしているときに、B都市はようやく日が昇ろうとしている。何ということのない〈映像〉でも、この〈同時性〉は、まったく感動的ではないか。[10]

実際には冒頭でも紹介したように、万博会場の三角広場とマイクロウェーブでカバーできる国内の中継地点が決定された。

種子島が「遠く」を現わし、あたりまえの茶の間が「日常」を現わし、霞が関ビル前広場は、大阪会場との「対話」を現わしていた。[11]

着々と準備がすすむなかで、実は今野は恐怖心も抱いていたといいます。

正直にいうと、「日常的時間」というコンセプト、すなわち、何も起こらない、ということが本当に実現したらどうなるのだろうと、何やら空恐ろしい気持ちに襲われたことを、私は覚えている[12]

「純粋なるテレビ」といいましたが、これは映画やビデオのようにはコンテンツがない、放送システムそれだけが稼動するというメカニズムの原理主義を意味します。こうして考えれば考えるほど、「アート・アンド・テクノロジー」の粋であり、この計画こそが、"未来の芸術"につながるはずでした。

「日常的時間の共有」から「笑い」へ

巨額の費用をかけて「日常」をみせるという、過激な理念は、1969年10月に覆される。電電公社のプロデューサーは、二人が海外に出張している間に、「日常的時間の共有」から「笑い」にコンセプトを変更し、大阪のテレビ・ディレクターを中心とした体制へと軌道修正をはかったのでした。いうまでもなく、スペクタクルを旨とする万博に、カタルシスとしての「笑い」が動員された格好です。ある意味で、現在の万博と酷似した状況ではないでしょうか?

今野と萩元が提案した設備、パビリオンは完成しましたが、1970年2月、二人は正式に企画を降ります。

エーコ

今野が考えるテレビジョンの美学とほぼ同じ内容の主張を、美学者のウンベルト・エーコはすでに書いていました。エーコは、1955年から59年まで、イタリア国営放送でテレビ・ディレクターとして働いた経験があります。その実務経験をもとに、テレビジョンの美学を論じた論考「偶然と筋 テレビ経験と美学」は、『開かれた作品』に収録されています(初出1956年)。

実況放送は二つのベクトルをもつわけだ。開かれた作品に向かうベクトルと、既成の伝統的ストーリーに向かうベクトルと。現状では後者のベクトルが優勢であることを、エーコは否定しないし、それのような現状に対して、やみくもに批判的態度を取るわけでも無い。(略)実況放送の二つのベクトルについて、時間論的な言い方を採用して、前者のベクトルが、自由な選択に開かれたものとしての時間のあり方とすれば、後者のベクトルは、反復図式としての時間のあり方と対応すると言うことができる。ちなみに後者の時間のあり方は、エーコにとって、そのまま大衆芸術を規定するものでもあった。[13]

今野たちと同様、実況中継の演出を、ジャズの即興演奏に喩えている偶然もあります。また実況中継だからといって、すべてが芸術になるとは限らないことも指摘しています。むしろ稀であるという主張です。また「偶然と筋」は、実況中継の演出を通じて、日常の解釈の拡張を示唆しています。曰く、「実況放送には、日常の出来事の動かしがたい不確定性をめぐる開かれた表現や探求、解釈の可能性がまだまだたくさん残されているはずだ」[14]と。

この時期の他の原稿においてもこうした主張は多く見られますが、テレビジョンの美学への周囲の無理解に、新進気鋭の美学者エーコは苦戦を強いられていたようにも見えます。しかし、テレビジョンのメカニズムへの理解不足が、議論の成立を阻害しているとも指摘します。

「日常の出来事の複雑な偶発性」[15]を、開かれた作品へと向かう筋として評価し、こうした方向の作品化に成功し、オーディエンスの指示も得た事例として、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『情事』(1960年)を紹介しています。

東野芳明

大阪万博に深く関与した美術批評家のひとりに、東野芳明がいます。東野は、1960年代前半から1989年に病に倒れるまで、テレビジョンの存在が芸術へ与えた影響を、しばしば批評に書いています。特に今野が「純粋なるテレビ」に取り組んだ1969年、『季刊フィルム』に「テレビ環境論」を掲載します。ジョン・ケージが、「アート・アンド・テクノロジー」の牙城であるEATのニュースペーパー『TECHNE』に掲載した短文「ART AND TECHNOLOGY1969」から「テレビと芸術が等価に退屈である」を参照し、芸術における「退屈」さを積極的に評価します。

ジョン・ケージは、最近、ニューヨークのEAT(芸術とテクノロジーの実験)グループの機関紙〈テクネ〉創刊号にこう書いている。(略)この〈退屈〉という言葉は、ケージのこれまでの考えから類推して、積極的な意味をもっていると思われる。つまり起承転結があり、自己完結し、カタルシスを本質とした〈芸術〉という概念が崩壊し、《人々が何かを行なっているということ》、つまり、生活や日常に接近した〈事実〉となっていることを考えると、それは、カタルシスを持たない〈退屈なもの〉ということが出来る。いいかえれば、芸術はけっして自己完結せず、人生と同じように結びついていて、開かれていて、過程そのものであり、面白くもおかしくもなく、淡々と、すばらしく退屈なものになりつつある。ちょうど、それはテレビという媒体が、人生とつねに平行して流れている過程そのものであり、本来、開かれた系であって、やはり、自己完結や閉鎖をこえて、カタルシスのない退屈なものであるのと同じである。[16]

ケージのみならず、バーバラ・ローズの「ABCアート」などにも共通する「退屈」への注目を、芸術が大衆にコミットメントする戦略、注意を促す表現と意識したうえで、その価値観の背景を「テレビ環境」と位置づけようとしたようです。ケージ、ローズに加えて、言及はありませんが、スーザン・ソンタグの「沈黙の美学」もここに並べてよいかもしれません。東野の文中に何度か「開かれ」という言葉が出てきますが、これは単なる偶然でしょうか? まぁ偶然に違いないのですけれど、「テレビ環境論」の文末には、今野たちの書籍が紹介されているのは本当です。

東野のテキストを読むと、「何も起こらない」「退屈」「沈黙」といった価値観の発生には、テレビジョンの存在が時代精神として、国際的同時性と領域横断の役割をはたしたように見えます。

結論

今野と萩元は、わりとあっさりと電気通信館から手を引いたようにも見えますが、実際には、1970年2月にTBSも退職し、テレビマンユニオンを設立しています。特に萩元は代表に就任します。万博で「純粋なるテレビ」は実現できなかったものの、1970年代前半のテレビマンユニオンこそ、日本のゲリラテレビジョンとして、技術批判的なメディア・リテラシーの展開に寄与したと評価することができるのではないか、と、私は考えています(実際、今野は『季刊フィルム』を介して、この後、ビデオコミュニケーションにコミットしていきます)。

2025年3月11日NHKの視点・論点で、今野は「放送100年 テレビは青春でなければならない」と話しました。こうした息の長い「純粋なるテレビ」は、博覧会に排除された美学として、現在にも息づいていることを、私はむしろ積極的に評価したいと考えています。

テレビマンユニオン出身の映画監督、是枝裕和が指摘した今野の資質ということになるかもしれませんが、それを紹介して、私の発表は終えたいと思います。

今野 大感動をする作品について、僕はケチをつけたりは一切しません。すごく尊敬しますけど、ただ僕自身は、あんまりそういうふうには作らない。

それを是枝裕和が見破ってですね、「今野さんはフィクションの世界が完成しそうになると、つまり完成っていうか、感動を与えたりしそうになると、必ずそこを崩して現実とつなげる」、そう言っていました。普通は、観客が周りの世界を忘れて、フィクショナルな世界に巻き込まれて感動するっていうのがフィクションの力としていいことなんです。いいことなんだけれど、そういう作品があってもいいんだけれど、「それで安心していいのか?」というのが僕の中にはある。たまには感動する番組も作ったりしますけれど(笑)。どこかで後ろめたいと思うところがある。[17]

「それで安心していいのか?」この批評精神ですね。「芸術と万国博覧会」「それで安心していいのか?」ということになりましょうか。

[1]「電気通信館」パンフレット、日本電信電話公社 万国博運営本部、1970年

[2]今野勉「〈テレビの方法〉についての覚え書き」『デザイン批評』第7号、1968年10月、140頁。

[3]同上。

[4]今野勉「テレビ的思想とは何か」『映画評論』1966年3月号、40-49頁。

[5]今野勉「テレビの思想」『芸術生活』第20巻第8号(第217号)1967年8月号、40-41頁。

[6]今野勉「テレビの思想」『芸術生活』第20巻第8号(第217号)1967年8月号、41頁。

[7]今野勉、松井茂「対談 思想としてのテレビ」『映像メディア学』巻4号、2013年、54, 55頁。

[8]今野勉『テレビの青春』NTT出版、2009年、401頁。

[9]今野勉『テレビの青春』NTT出版、2009年、405頁。

[10]今野勉「書評 〈技術〉に立ち遅れた〈観念〉をどうする?」『美術手帖』第335号、1970年12月号、208頁。

[11]今野勉『テレビの青春』NTT出版、2009年、414頁。

[12]今野勉『テレビの青春』NTT出版、2009年、411頁。

[13]篠原資明「エーコとTVの記号論」『日伊文化研究』第27号、1989年、18頁

[14]ウンベルト・エーコ「偶然と筋 テレビ経験と美学」『ウンベルト・エーコのテレビ論集成』河出書房新社、2021年38頁。

[15]「テレビについての覚書」1963年、51頁。

[16]東野芳明「テレビ環境論」『季刊フィルム』No.3、1969年、117頁

[17]今野勉、松井茂「対談 思想としてのテレビ」『映像メディア学』巻4号、2013年、80頁。

藝術学関連学会連合事務局