1900年のパリ万博は、世紀の転換点ということもあり、多くの来場者が新しい産業技術やデザインを見るためにパリを訪れた。そこでフランスが呈示したのがアール・ヌーヴォーという、文字通りの新しい芸術であった。街では曲線的な意匠が目を引き、ポスターが彩りを添えていた。日本からこのパリ万博を視察に訪れた人びとも、賛否それぞれのニュアンスがあるものの、その新しさに注目し、また、影響をうけることになる。アール・ヌーヴォーの勝利といわれることもある1900年のパリ万博は、日本の意匠(=デザイン)を考えるうえで重要なイベントであった。
本報告では、1900年のパリ万博が日本のデザインに対して果たした役割を、この博覧会と同時に開催された「第1回図画教育に関する万国会議」(以下、万国会議)とセットで考えることにより明らかにしたい。
20世紀の日本のデザインを考える前段階として、まず、明治時代前期において、つまり、開国以後の19世紀後半の日本で、輸出工芸にほどこされる装飾として制作され、改良されることになった図案に注目する。
明治新政府がはじめて万国博に参加するのは、明治6年(1873)のウィーン万博である。手探りながらも、シーボルト兄弟やゴットフリード・ワグネルのアドバイスを受けつつ出品した美術工芸品は、その珍しさと当時のヨーロッパにおける東洋趣味を背景として、一定の評価を得た。3年後の1876年に開催されたフィラデルフィア万博の出品物と合わせてみると、色鮮やかな武者や女性が描かれた大規模な陶磁器類が出品され、人気を博していたことがわかる。
しかし、博覧会での評判とは裏腹に、これらの工芸品に限界があることも自覚されていた。ウィーン万博を機に明治7年に設立された起立工商会社が指導した図案や、政府による同時期の図案指導書ともいえる『温知図録』(明治8年~明治18年頃)が示すところの「推奨される」輸出工芸用の図様には、武士や女性は影を潜め、写生的に表現された花鳥が中心となっていた。海外の状況を知る人びとにとっては、こちらの方が輸出工芸としての可能性があると判断したのだろう。この時期には、最初の公立美術学校である京都府画学校が設立されるが(明治13年)、そこで指導された「絵画」も同様であった。そのことは、明治15年の内国絵画共進会の際に、京都府画学校の開設に尽力した日本画家幸野楳嶺の『楳嶺百鳥画譜』が工芸品の装飾にふさわしい「絵」を提供したとして「絵事著述褒状」を受けたことからも明らかである。
このように、明治10年代には、いまだ「図案」という語が前面に出ているわけではないが、輸出工芸品の装飾として、写実的に花鳥や草花を描く「絵画」が注目をされ、指導されていた。
そして、このような流れのなかで、明治20年に東京美術学校が開設される。東京美術学校では、図案科も当初の計画にはあがったが、すぐには開設されなかった。しかし、学科構成が、日本画・木彫と工芸であり、その工芸が日本独自の漆工・金工であったことからも輸出向けの工芸品制作が意識されていたことがわかる。明治21年の規則に「図案ノ師匠」の養成が明示されている点からも「図案=輸出工芸の装飾」が前提であったと考えてよいだろう。なお、先述の京都府画学校では、明治21年に普通・専門画学科と応用画学科ができて、工芸の装飾としての「応用画」が明確になり、やがて、明治24年には学校名の改称とともに工芸図案科ができて、工芸の図案制作を目的とすることがより明確に示される。一方で、明治23年に開校した東京工業学校には明治32年に工業図案科が設置されている。以上のように、この時期には美術工芸系の教育機関において、「図案」という語を冠して輸出工芸の装飾を中心に教育をおこなうようになっていた。そして、このようななかで、明治29年に東京美術学校に図案科ができる。
東京美術学校の図案科では、のちに日本図案会を設立する福地復一が中心となり、そのもとで、いずれも日本画家である橫山大観、本多天城が指導した。この段階でも、やはり、同時代の絵画を応用した図案が指導の対象であったことがわかる。
そして、このような国内的な整備の成果は、万国博との関係でいえば、絵画に接近する工芸品の出品としてあらわれている。明治26年のシカゴ万博、明治33年のパリ万博では「絵のような」工芸品が出品物の中心的な存在として注目を集める。しかし、明治時代前期に瓢池園や柴田是真らの陶器、漆器の作品がすでに額装になっており、早くから絵画へ接近していることは明らかである。額装された工芸品は、絵画的な装飾をまとっていた工芸品が、技法を存続しつつ、本来の用途を放棄して、より絵画に近づいたことを示している。とはいえ、輸出工芸におけるそのような動向が頂点をきわめる1900年のパリ万博において、写実表現を最終形としないアール・ヌーヴォー的な新しい造形が席巻することになるのは皮肉である。さらに、この時期には、印象派の登場に象徴されるように、絵画自体が写実的な再現性からは離れてゆく。このような状況を考えれば、絵画的な図案が否定されることになるのも時間の問題であった。その意味でも、1900年のパリ万博は、日本の工芸品の装飾としての図案の動向に大きな影響を与えたのである。
つぎに、1900年のパリ万博前後に日本の図案をめぐる環境がどのように変わったかについて概観してみたい。
そもそも図案とは図で示した案であり、工芸品の表面装飾だけではなく「かたち」も含んだものであり、一種の「完成予想図」的なものであった。それは、たとえば、金沢の蓮池会が作成して東京の図案調製所に送って添削を受けていた「図案」によっても明らかである。そのため、博覧会の出品区分などでは、美術工芸品の装飾だけではなく、よりひろく造園や造家(建築)の「図案」というものも含んだ概念として用いられていた。しかし、図案は、いずれにしても、用途あるものの形状や表面装飾としての位置づけであった。そこに新しい動きが出てくるのが、明治30年代である。
明治33年に開催された第5回白馬会展では、黒田清輝がみずからヨーロッパから持ち帰ったポスターを展示して一般に公開している。また、明治35年に開校する京都高等工芸学校では、図案科の初代教授である浅井忠や武田五一が持ち帰ったポスターが教材として用いられており、同時に、関西美術会の会場などでも積極的に公開されていた。このように、ヨーロッパの新しいデザイン表現であるポスターが多くの人びとの目に触れるような状況が徐々に生まれていた。くわえて、明治30年代の後半になると、図案の懸賞募集や展覧会においてアール・ヌーヴォー様式の作品が見られるようになる。そのなかにはいまだ本の装幀のように、装飾が自立していないものもあるとはいえ、新しい表現を積極的に取り入れていることがわかる。
そして、「図案」の側でより興味深いのは、明治40年の東京勧業博覧会の前年に出された「東京勧業博覧会出品規則」である。それによれば、「第3部図案画 22類建築図案、23類美術及工芸図案、24類広告表紙、レッテル、絵葉書等の図案」となっており、これまでは出品区分の名称になかった「広告表紙、レッテル、絵葉書等の図案」があがっている。つまり、それまでは23類の「美術及工芸品図案」というように工芸品が主体であってそれに従属するような図案が意図されていたが、広告という意図をもった、より主体性のある自立した図案が立項されている。
さらにこの東京勧業博覧会の洋画部門で入賞した岡田三郎助の「婦人像(某夫人肖像)」は、2年後の明治42年に三越百貨店がポスターにしている。いまだ、ここでは洋画を直接用いているとはいえ、ポスターというジャンルも「見る」ものから「つくる」ものへと変化をしている。このような動きを踏まえての「広告表紙、レッテル、絵葉書等の図案」の募集であったと考えてよいだろう。
以上の点から、明治30年代後半から40年前後には、図案が、工芸品の装飾といった従属的な立場から、より自立した存在へと大きく変化し、さらに、ポスターの制作がおこなわれるといった大きな地殻変動がおこっていることがわかる。そのような変化を確認したうえで、その契機としてのパリ万博と万国会議を考えてみたい。
はじめにも紹介したように1900年のパリ万博はアール・ヌーヴォー全盛の時期であり、建築から工芸品にいたるまで、アール・ヌーヴォー的な新しい造形やポスターなどが街にあふれていた。
一方で、図画教育についての「万国会議」がはじめて開催されたことにより、図画の教育について、世界的な関心と制度整備の必要性が意識されていたことがわかる。この「万国会議」の報告書は、会議から2年後の明治35年に文部省総務局の編纂で出版されている。そして、この会議で重要なのは、第6議題に「装飾図案ニ関スル通俗教育」があげられている点である。ここでは、フランスでの三つの事例が報告されて議論がおこなわれたようである。報告書には、小中学校および専門学校でその地位を占めることが予感できるだろうとして装飾図案の流行とそれについての教育の必要性が論じられたことが記されている。
はじめて開催された「万国」規模の図画教育会議で「装飾図案」についての教育が論じられたことは、パリの街を席巻しているアール・ヌーヴォー様式の造形を含む「装飾図案」正木直彦が、たんなる流行に留まるのではなく、小中学校で教育すべきものであることを出席者に印象づけたに違いない。日本からこの会議に出席したのは正木直彦(1862-1940)と黒田清輝(1866-1924)であった。
正木直彦は、師範学校校長などを経て文部省に出仕して早くから美術行政にかかわっていた。明治32年からヨーロッパに視察に赴き、明治34年のパリから帰国後すぐに東京美術学校の校長になる。美術教育・美術行政のプロといってよいだろう。報告書をまとめたのも基本的には正木であったことは明らかである。また、帰国後の明治35年に「普通教育ニ於ケル図画取調委員会」を設置し、その2年後には官報「普通教育に於ける粧飾図案」を出して小学校の図画に「考案画」としての平面模様を加えることになるが、そこに正木の考えがあったことは確実である。一方の黒田清輝は洋画家として東京美術学校の西洋画科の教授をつとめる一方、先進的な洋画団体白馬会を結成し、先述のように、そこでフランスから持ち帰ったポスターの披露などもおこなっている。わが国最初のデザイナーともいえる杉浦非水に影響を与えたのが、黒田が持ち帰ったポスターであったことはひろく知られている。また、1884年から1893年までパリに留学をしていたため通訳的な役割も果たしたと考えてよいだろう。このように、出席した二人は、帰国後にそれぞれの立場でその知見をひろめていた。
しかし、この時期にパリにいたのは、彼らだけではなかった。当時、京都帝国大学理工科大学の学長であり、第三高等工業学校(のちの京都高等工芸学校)の設立委員の中心人物であった中澤岩太(1858-1943)は、パリ万博およびヨーロッパの実業学校視察のためにパリにいた。中澤は、京都に赴任する前は東京帝国大学の製造化学の教授であった。化学者ではあるが、美術工芸にも造詣が深く、その近代化に大きな役割を果たした。また、黒田と同じく東京美術学校の西洋画科の教授であった浅井忠(1856-1907)も西洋画研究のためにパリに滞在していた。中澤は正木の紹介により浅井を知り、ともにデザインの重要性を認識して、中澤は浅井を京都高等工芸学校の図案科の教授に勧誘したという話が伝わっている。中澤と正木は旧知であり、黒田と浅井は同僚である。さらにここには、中澤と同じ若狭丸で渡仏した小山正太郎(1857-1916)が加わっていた可能性もある。小山は浅井とともに明治美術会を牽引した洋画家であり、明治12年からは東京師範学校の図画教員となり、鉛筆による美術教育を主張し、毛筆画教育を進めようとする岡倉天心と対立を深めていた。美術教育には大きな関心を寄せていた一人である。つまり、正木・黒田・中澤・浅井・小山がこのパリで「粧飾図案」の教育という関心事をネタに話し合った可能性はきわめて高いのである。
中澤が、明治35年に開校予定の高等教育機関である京都高等工芸学校の中心に図案科を考えていたことはすでに宮島久雄により指摘されている。中澤は早くから工芸品の改良には「形状と模様」、つまり図案についての考案が必要であることを指摘していた。そして、中澤は、京都高等工芸学校図案科の指導体制を、当初予定の建築家武田五一と洋画家の牧野克次の二人に、パリでの体験を踏まえて浅井忠を加えている。この人事には正木も大きくかかわっていたとされる。おそらく正木はこの1900年のパリでの状況を共有しているからこそ、浅井に京都高等工芸学校の図案科を勧めたのではないだろうか。浅井がそこに積極的に参画したこともすでに指摘されている。
さらに、正木は明治40年の東京勧業博覧会の審査長もつとめているため、この博覧会における「広告表紙」「レッテル」といった出品区分にも関与したと考えてよいだろう。つまり、正木・中澤ともに1900年のパリでの体験を踏まえ、新しい図案教育の必要性を自覚し、それを積極的に推し進めていたのである。
一方で、早くから図画の教科書を刊行していた浅井忠は、帰国後の明治39年に『新編浅井自在画臨本』を出版している。ここでは、序文で「終ニ附スルニ図案ノ教材ヲ以テシテ......写生ノ方法ヲ授ケ図案ノ組織ヲ示シテ工芸的思想ヲ養成」するとして、通常の絵画指導に加えて、図案の指導もおこなっている。それは、明治40年の浅井の急逝後に刊行される『訂正浅井自在画臨本』でも同様である。浅井は、おそらく、1896年に刊行されたグラッセ『植物とその装飾への応用』や1897年刊行のヴェルヌイユ『装飾のなかの動物』など、刊行からほどなく京都高等工芸学校で教材として使用していたヨーロッパのデザイン指導書に倣っている。浅井の活動は、ヨーロッパの方法論の直模的な要素が強いが、それを日本におけるデザイン教育の現場に落とし込んだ早い例ということができる。浅井の教科書に見られるような動きは、装飾画が教えるべきものであると示されたことは明らかである。
明治39年の『美術新報』5-15に掲載される原貫之助の「第1回図画教育者大会提案 中等教育図案教授法」には、第1章第1節「図案の意義」からはじまり、図案についての詳細な分析が続くが、そのなかに「(7)図案と美術的趣味の普及並に工芸的思想の発達」があり、そこには「千九百年佛朗西に於ける図画万国会議は、図案は美術をして各一家内に普及せしむることを得と決議せり」と記されている。この記述からも「万国会議」が新しい図案観の確立に影響があったことがわかるだろう。
明治30年代から40年代にかけて、日本では図案からデザインへの大きな転換期であった。それは、工芸品の表面装飾としての図案、つまり海外向けの工芸品の図案から広告やレッテルなどの図案、つまり人びとの日常生活を賑やかす国内向きの図案への切り替えであり、ポスターなど自立したデザインの登場ということができる。さらに、そのような装飾画が、初頭から高等までの教育制度へと落とし込まれ、教科書や指導書が刊行される。このような変化の契機になったのは、表面的には「アール・ヌーヴォーの勝利」といわれる1900年のパリ万博とその体験であったかもしれないが、それと同時におこなわれた万国会議がより大きな影響をわが国に与えたといってよいだろう。
日本のデザインの夜明けの時期について、従来、パリ万博の影響を論じることが一般的であった。しかし、それでは一面的な見方にしかならず、「万国会議」があってこそデザイン的な考え方が根付いたと考えるべきだろう。