1970年の大阪万博には表現に関わる無数の専門家たちが動員された。会場計画やパビリオン設計を担った建築家たち、ポスターやシンボルマーク、展示空間などを手がけたデザイナーたち。そして、多くの美術家たちも、作品発表、展示・造形構成などの様々な立場・文脈で参加した。主催側が設定したメインテーマの「人類の進歩と調和」を展開する4つのサブテーマの一つが「より深い相互の理解を」で、「知的な諸制度」に対をなすものとしての「情的な諸芸術」の大きな役割が想定されていたわけである。一方の万博の外側では、現代美術の文脈でインターメディアや環境芸術といった概念が追究されており、当然ながらそれは万博の内側の美術とも連動していた。
美術家の森村泰昌は、2000年の横尾忠則との大阪における対談で、万博当時の社会の雰囲気についての実感を述べている(森村泰昌・横尾忠則「森村泰昌の大阪案内 with Tadanori Yokoo」『横尾忠則マガジン』5号、平凡社、2000年)。
でもぼくが小さい頃、大阪の普通の人が知ってる前衛画家(抽象画家といってました)は岡本太郎と堂本印象でしたよ。(中略)あの頃は、一方で万博という明るく大きいお祭りがあって、その一方で反博やアングラの祭りもあって、ぼくはその両方に行っていました。あの頃はお祭りの時代で、それが終わって結局太陽の塔だけが残ったということですかね。
興味深いことに、ここで一般に知名度が高かったとされた2名はともに万博に関わっていた。そしてその背景に、高度経済成長の象徴である祭りとしての万博と、その影としての政治的動向に起因する万博批判の反博(ハンパク)という両極が存在したことも示されている。美術家の社会的評価と政治性との関係性とその課題が、大阪万博を取り巻いていた。
このような時代の空気のもとで、万博に参加した美術家たちの関与の契機は、万博協会による選出、万博のプロデュースにかかわる人物による選出、出展民間企業による選出、民間パビリオンのプロデュースにかかわる人物による選出、万博に関連する展覧会等の出展者であったことなど多様である。以下、パビリオン・施設別に、万博の準備運営に参加した主な美術家の万博との関係を列記する(年齢は1970年のもの)。
参加当時の各自の年齢に目配りすると、60代以上の岡本や吉原、堂本(印象)、ノグチらが万博の中心に近い位置で関わり、40代前後の中堅である山口や堂本(尚郎)らが民間パビリオンのプロデュースを、30代以下の若手たちがそれぞれの現場での表現を担当したという大きな構図が見て取れる。そこには、万博の基幹に近い領域での参加と、民間の領域での参加、その中間領域での参加という、それぞれの立場があった。また、パビリオンのプロデューサーとなった建築家や映像プロデューサーたちが、縁のある若手の美術家を万博に引きこんでいった状況もあったのであろう。
このなかで独自の万博への関わり方をしているのがイサム・ノグチである。1967年にアメリカ館デザインコンペに参加して落選したノグチに、万博の3つの人工池に設置する9基の噴水を依頼したのは丹下健三であった。1968年12月に噴水の設計契約(報酬約12,000ドル)を行い、丹下の協力で5社の噴水の専門家による手厚いチームのサポートを受ながら、1970年1月に設計を終了した。
「纏」がモチーフで、「私はこの作品が噴水が上に向かって吹き出す水流であるという共通認識に異義をはさむようなものとして構想した」「私の噴水は百フィートの高さから噴射し、旋回して飛沫を上げ、水の渦巻きをつくって消え、それから霧となってまた姿を現わした」「アートに奉仕するテクノロジーの夢」(ヘイデン・へレーラ著、北代美和訳『石を聴く イサム・ノグチの芸術と生涯』(みすず書房、2018年)、ドーレ・アシュトン著、笹谷純雄訳『評伝イサム・ノグチ』(白水社、1997年)といった、水の動きへの関心による作品であった。
ノグチは、この時期には、旧知の谷口吉郎による東京国立近代美術館のための彫刻の依頼(《門》1969年)や、丹下による草月会館ロビーの設計依頼(《天国》1977-78年)など、万博にもつながるような建築家との規模の大きい協同に取り組んでいたという文脈があった。
ここで比較のために、大阪万博の民間パビリオンが採用したプロデューサーについて確認しておこう。
職能から考えれば当然ながら、イベントプロデューサー、建築家、映画・映像作家、企業の社員らがその多くを占めており、美術家は少数であった。しかしながら、プロデュースやデザインではない、美術家独自の表現を追求する特質が、大阪万博で本格的に始まる、多領域協同の大規模なプロジェクトに求められた局面があってこその参加であったともいえるだろう。
このような大規模プロジェクトに参加した美術家として、テーマ館のプロデューサーを務めた岡本太郎はひとつの優位性を有していた。1954年、岡本が東京・南青山に完成した自宅・アトリエを「現代芸術研究所」と命名し、美術家、建築家、デザイナーら、ジャンル越境を志向した活動を開始していた。1967年の岡本の万国博プロデューサー選出により、現代芸術研究所は法人登記され、テーマ館の企画・設計、制作・運営を担当・統括、その後、協会がテーマ館の基本設計・実施設計、展示工事、館の各装置の操作・演出・保全・解説等も委託した。岡本は万全なプロジェクトマネジメント体制を背景に、美術家の立場でテーマ館を成立させた訳である。
ところで、大阪万博には純粋な美術展示も存在した。テーマ「調和の発見」により古今東西の人類の美術を紹介した万国博美術展であった。美術展示委員会委員には、委員長の松下隆章(奈良国立文化財研究所所長)以下、多くのは館関係者に加えて、丹下健三と吉原治良も選出されている。その5部「現代の躍動」には38名の日本の美術家が出品した。このなかには、万博の準備・運営に参加した美術家が含まれている(下線)。この美術展覧会が、美術家が万博参加するための窓口のひとつであり、そこからより主体的な参加に接続する足がかりともなったと捉えることもできるだろう。
斎藤義重、佐藤敬、手島右郷、比田井南谷、森田子龍、宇野雪村、千葉勝、今井俊満、堂本尚郎、白髪一雄、工藤甲人、大島哲以、下田義寛、山口長男、吉原治良、菅井汲、猪熊源一郎、元永定正、勅使河原蒼風、堀内正和、豊福知徳、向井良吉、吾妻兼治郎、木村賢太郎、関根伸夫、宮脇愛子、飯田善国、山口勝弘、多田美波、伊藤隆康、田中信太郎、吉村益信、湯原和夫、靉嘔、荒川修作、三木富雄、宇佐美圭司、高松次郎(出品目録掲載順)
さらにこの5部の屋外展示として、具体美術協会の共同制作「ガーデン・オン・ガーデン」が制作された。プロデューサーは吉原で、今井祝雄・今中クミ子・堀尾貞治・嶋本昭三・吉原通雄・名坂千吉郎・名坂有子・聴濤襄治・吉田稔郎・松田豊・向井修二・ヨシダミノル・高﨑元尚・河村貞之が参加して、大阪万博における具体の存在感を誇示した。
1969年9月1日~11月30日に開催された「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」(日本鉄鋼連盟・毎日新聞社主催)では、ジャン・ティンゲリーら国内外の13作家が大阪市内の同一ホテルに滞在、特設合同アトリエ(大阪西淀川区野里西、後藤鍛工内)で制作し、日本からは4作家が参加した。シンポジウムの発案・中心的推進者は、万国博美術展にも出品している飯田善国(実行委員・運営委員)で、作品は万国博の人工池周辺に設置することとなっており(会場計画確定後に設置場所を選定したため、空きスペースに設置)、万博への美術家、特に万博の到る処で存在感を持つ空間との関係性を切り結ぶことのできる、彫刻家たちの参加のルートとなった。
シンポジウム委員は、八幡製鉄取締役社長の稲山嘉寛が委員長を務め(八幡製鉄と富士製鉄は1970年3月に合併して新日本製鉄に)、全国の製鉄会社の取締役社長が加わり、万博に鉄鋼館を出展した日本鉄鋼連盟とも関係が強いシンポジウムとなっている。また、諮問委員に丹下健三、前川國男、土方定一、丸山尚一、中原佑介らが加わり、万博の美術とも地続きであることがわかる。このシンポジウムは、万博の内側と外側の中間領域として機能していた。
峯村敏明はこの企画について、「"芸術家"は幻想なしに巨大企業ないしは機構とどのようなかかわり方ができるか、その問題が参加者ひとりひとりの胸中でどこまで深く問い詰められたかということである」(峯村敏明「今月の焦点」『美術手帖』1970年1月)と論じており、万博のはらむ政治性と美術家の社会評価の問題がここでも注目された。
それでは、その中間領域の外側に広がっていた美術とはどのようなものであったのか。万博の会期中1970年の3月から9月にかけて、万博の外側の日本で開催された主要な現代美術展を整理しておこう。
第10回日本国際美術展「人間と物質」展(東京ビエンナーレ)
1970年5月~8月、東京都美術館・京都市美術館・愛知県美術館・福岡市文化会館
企画構成 中原佑介(コミッショナー)、国内外の40作家
[日本から]12名
榎倉康二、狗巻賢二、河口龍夫、河原温、小池一誠、小清水漸、松沢宥、成田克彦、野村仁、庄司達、高松次郎、田中信太郎「現代美術の一断面 1970年8月」展
東京国立近代美術館、1970年8月4日~30日、東野芳明企画 [出品作家]13名 狗巻賢二、大西清自、河口龍夫、小清水漸、菅木志雄、高橋雅之、高松次郎、田中信太郎、成田克彦、本田真吾、矢辺啓司、吉田克朗、李禹煥「現代美術の動向」展
京都国立近代美術館、1970年7月7日~8月9日
[出品作家]23名
五辻茂、榎倉康二、大黒利幸、木村光佑、木村利三郎、倉貫徹、佐藤亜土、佐藤信重、佐野芳樹、白浜信明、菅木志雄、高山登、武里惣、寺田武弘、トウハンシ、楢葉雍、野村仁、八田淳、原健、船坂芳助、水上旬、梁島晃一、吉田克朗
これら万博の外側の展示からは、美術家・批評家たちの同時代美術としての物質・環境への注目と、インターメディア的活動への関心を読み取ることができ、それは万博内の美術とも連続性のあるものであった。
萬木康博は、このような1970年の現代美術展について、次の様に述べている(萬木康博「〈1970年以降の美術――その国際性と独自性〉展について」『「現代美術の動向Ⅲ 1970年以降の美術――その国際性と独自性」展図録』東京都美術館、1984年)。
これらの諸展覧会の集中と呼応は、単なる偶然ではなく、まさにこの時期が大きな時代の転換点であったことを示している。(中略)ここでなお"個別性"の意味するものを、歴史・風土・国民性(国や文化圏)などの違いから生ずるものとだけ解しておけばよいのだろうか。(中略)文字どおり「それ以上divide(分割)できないもの」として今日問題にされるべきものは、いまや"国"よりもむしろそれぞれの社会を構成している1個の人間存在という単位であるように思う。
この指摘は、万博が大きく括るような個別性と、美術家各個人が思考していた個の対比を象徴しているようであり、これこそが、万博に美術家が関与する意義でもあっただろう。
一方で、このように万博の内外で展開した現代の美術の諸相に関連するが、テーマ館で万博に関わったSF作家の小松左京が、万博の実施側の観客層の想定について、1970年に以下のように述べていることは注目される(小松左京「日本の万国博覧会」『年鑑広告美術1970』東京アートディレクターズクラブ、1970年)。
ともあれ、博覧会のプロジェクト全体がはらんでいた緊張によって、関係者全体が、肩に力を入れすぎてしまった感がある。そして、それは、デザイン面において、とにかくデザイナー達が考える限りにおいての、『最新、最高、最先端のもの』をつくり上げようとする、一般的な傾向を生んだようである。――こうしてでき上がった万国博においてはっきりした事は、その『最新、最高、最先端』と考えられたものの発想の基盤が、都市中間層(アーバン・ミドル)の文化にあり、一方、観客の大部分は地方民衆(カントリー・フォークス)であって、この間にはっきりと断層が見てとられたのである。
万博の会場で提供される表現と、観客の状況の間には、このような「断層」があり、それは最新の現代美術と万博の訪問者の間にも存在していたように思われる。それは万博という大規模プロジェクトが、あるいはその対極にあった強い政治性を持ったハンパクの動向が、個に発する美術に対しても否応なくまとわせた緊張感によるものであっただろう。
以上、美術家の大阪万博参加の構造を検討してきた。建築家・映像プロデューサーの仲介により、個の表現の追求を要請された多くの美術家が大阪万博に参加した。万博の基幹に近い領域での参加と、民間の領域での参加、その中間領域での参加の差異があったものの、そこには、大規模プロジェクト型の企画運営における、建築家やデザイナー、映像作家とは異なる、美術家の職能の意義が存在した。これらの背景には、万博の外側にいた美術家に見られる、物質・環境への注目やインターメディア的活動への志向の、万博内への連続性があり、それは万博の準備側の想定する具体的な観客層とその実相の間の断層を生じさせた。それらすべてを、祭りとしての万博と、政治性としてのハンパクのもたらす緊張感が覆い尽くしていったのであった。