本発表では、丹下健三と磯崎新という2人の建築家が、1970年の大阪万博にいかに関与したかを概観する。この両者はともに日本を代表する建築家であり、しかも磯崎は東大の丹下研究室の出身であるなど師弟関係にもあたるが、建築家としての資質は大きく異なっている点が見受けられる。両者の差異が最も本質的な形で明らかになったのが、実は1970年の大阪万博だったのではないか。本発表はそのような仮説の下に構想された。本発表において、両者の差異は「祝祭」と「廃墟」という言葉へと集約される。
まず1970年大阪万博の概要を確認しておこう。大阪万博は1970年3月14日から9月13日にかけて、大阪府吹田市の千里久亮を舞台として開催された。6421万8770人という動員記録は開催当時最高のもので、この未曽有の国家事業は1964年の東京オリンピックと並ぶ戦後復興の象徴として位置づけられ、開催から半世紀を経過した現在もしばしば回顧される。
この大阪万博に中心的な存在の1人として関与したのが丹下健三である。1914年生まれの丹下は、「広島平和記念公園」(1955)や「香川県庁舎」(1958)などの代表作を有するほか、「スコピエ都市計画」(1966)など海外での実績も残し、大阪万博と並ぶ国家事業であった東京オリンピックでも「国立屋内総合競技場(代々木体育館)」(1964)の設計を担当し、50歳前後の時点ですでに日本を代表する建築家としての地位を確立していた。
大阪万博に関しても、丹下は1965年初頭の開催決定から間もなく関与するようになる。丹下は同年秋に開始されたテーマ委員会に数回にわたって出席、「人間は都市をつくる動物である」などの持論を展開し、桑原武夫、梅棹忠夫、加藤秀俊、小松左京らと議論を戦わせた。丹下は「中央公論」の1965年1月号に「日本列島の将来像」と題する論文を寄稿している。この論文で丹下は、いわゆる東海道メガロポリスをアメリカ東海岸のラストベルトになぞらえ、日本列島の今後の発展の要衝として位置付けているが、この論旨は大阪万博のテーマであった「人類の進歩と調和」とも親和性が高く、委員会での発言を通じて、テーマ決定にも影響を与えていた可能性がある。また委員会での丹下の提案は、「生命の本性 より豊かな生命の充実を」「技術 より好ましい生活の設計を」「人間と人間 より深い相互の理解」という3つのサブテーマにも反映されることになった。
当初、万博の会場計画は丹下と西山夘三が共同で担当することになっていた。東大の丹下と京大の西山の役割分担という発想はいかにも官僚的だが、両者は研究室のメンバーを交えて、何度か合同合宿を行った。この合宿では、万博会場を一種の未来都市としてとらえ、これからの日本の国土計画、都市計画、地区計画はいかにあるべきかが議論されたという。
万博会場の中心部が「お祭り広場」と命名されたのもこの合宿を通じてである。この命名は、「世界のすべての国民がそれぞれに発展させてきた英知とその成果を誇らかにここに持ち寄れることを期待し、そこに人類協和の喜ばしい一つの広場が出現する」というテーマ委員会での文言から採取されたものだが、実際には数年前に中国を訪問し、天安門広場で国慶節の祝典を見て感銘を受けた西山の提案に由来していた。会場の中心は公園よりも広場がいいという西山の提案には、丹下も同意したという。
数回の合宿で議論を煮詰め、1966年に9月に丹下・西山の両者は会場基本計画を計画委員会に提出したが、施設計画全体を担う総合プロデューサーに指名されたのは丹下だけであった。建前上両者は対等であったのだが、現実には実績に勝る丹下の前では、西山も渋々ながら主導権を譲らざるを得なかったのであろう(この体制下で、丹下の下についたのが丹下研究室出身の磯崎と西山研究室出身の上田篤であった)。全権を掌握した丹下は約330ヘクタールの敷地に縦と横の軸を走らせ、パビリオンをエリア別に配置する会場計画を発案、3大人気パビリオンと言われた日本館、アメリカ館、ソ連館が的確なバランスで分散配置されていた。また会場の中心を貫く縦軸の中央に設けられた「お祭り広場」は、銀屋根によって覆われることになった。
ところで、この大屋根は幅108m,長さ291.6m,高さ30mの巨大なもので、世界最大級のスペースフレームであった。当時欧米の建築界では巨大スペースフレームが流行しており、様々な実験的なデザインが試みられていた。ヨナ・フリードマンの「空中都市」(1958)やセドリック・プライスの「ファンパレス」(1963)はその代表格だが、しばしば比較された両者があくまでも計画案にとどまったのに対し、曲がりなりにも「お祭り広場」は実現したわけで、ここに丹下の確かな手腕を認めることができる。
このスペースフレームには、コンラッド・ワックスマンの影響を指摘することができる。ワックスマンは巨大スペースフレームの研究に一生を捧げたユダヤ系の技術者で、1955年には東大に招かれてゼミナールを開催しており、丹下がここから多くを学んだことは間違いない。一方、巨大な銀屋根を突き破るように直立する岡本太郎の「太陽の塔」の存在感は圧倒的だが、もともとこの塔は現在のように大阪万博のシンボルとして認知されていたわけではなく、地上と銀屋根内の「空中テーマ館」を結ぶエレベーターであった。当時岡本と丹下の間でどのようなやりとりがあったのかは不明だが、大屋根の図面や模型には早くから大きな穴が開いていたそうなので、「太陽の塔」の設置はかなり早い段階、1967年7月の岡本のテーマ展示プロデューサー就任決定からほどなくして決定したものと考えられる。
一方、丹下から「お祭り広場」の総合演出を託されたのが磯崎である。丹下研究室出身の磯崎は1963年に独立して自らのアトリエを構えていたが、以後も「スコピエ都市計画」など丹下研究室の大型プロジェクトにしばしば関与しており、この演出もその一環であった。
丹下の委託を受けて、磯崎は報告書を取りまとめ常任委員会で報告を行う。磯崎は、ロンドン万博におけるクリスタルパレスやパリ万博におけるエッフェル塔などを例にとり、かつての万博では未来を予見するモニュメントが建設されていたが、この大阪万博に必要とされるのは情報化社会を予見する「インヴィジブル・モニュメント」であるとし、それを実現するために「お祭り広場」の下で様々な実験を行う構想を披露した。
磯崎の建築家としての処女作は「新宿ホワイトハウス」(1960)だが、同所を拠点として活動を展開したネオダダイズム・オルガナイザーズのリーダー・吉村益信は磯崎にとって同じ高校の1学年下の後輩に当たる。このエピソードが示す通り、当時から前衛美術と深いかかわりを持っていた磯崎は、友人であった美術評論家の東野芳明からの助言を受け「お祭り広場」で「環境の大実験」を行うことを思い付き、「イヴェント」「メカニズム」「システム」「プロセス」の4項からなる計画案をまとめる。その計画は具体的には、会場内に2台の巨大ロボットを配置することや、世界各国の伝統的な行事に加え、現代アートのイヴェントなどを行うことによって展開された。その構想の中核をなすのが、「インヴィジブル・モニュメント」であった。
磯崎は人間とロボットがコンピュータを介して一体化する環境を「サイバネティック・エンバイラメント」と定義し、「お祭り広場」を情報化する未来都市の縮図として見立てた。だが半世紀を経た現在、それらの実験的な試みの印象は総じて薄く、「太陽の塔」の圧倒的な存在感に飲み込まれてしまった印象が否めない。実際当の岡本は、報告書の巻末にコメントを寄せ、観客は「お祭り広場」に「ヤボっちい」ものを求めているのであり、現代美術の文脈でしか理解されない「ハプニング」など受け入れられないだろうと予見していた。結果的にこの予見はものの見事に的中した。「インヴィジブル・モニュメント」の実験の数々は、「太陽の塔」の圧倒的なインパクトの前に敗北したと言ってもよい。
ところで磯崎は、報告書を取りまとめる前に、自らもメンバーとして名を連ねていた「エンバイラメントの会」が主催する「空間から環境へ」展(1966、銀座松屋)に参加し、作品を出品すると同時に会場構成を担当し、「ぼくは都市構成のイメージを一種のイヴェント群としてとらえるような方法の予感を持った。作品のひとつひとつはたしかに個性を持った存在なのだが、総体はもはやみわけつかず、高次のイヴェントとでもいう他ない、ひとつの都市空間モデルである」とその経験を振り返っている。言うまでもなく、磯崎その人をはじめ、東野、山口勝弘、秋山邦晴、一柳慧、東松照明といった錚々たるメンバーが参加したこの展覧会での経験は、「インヴィジブル・モニュメント」にも大いに反映されている。
続けて磯崎は、1968年にイタリアで開催されたミラノ・トリエンナーレにも参加し、「空間から環境へ」で協働した一柳や東松らの協力を経て、2つのセクションからなる展示を行った。1つは、原爆で焼け野原となった広島のパノラミックな景観の両端に巨大構築物がモンタージュされた巨大パネルで、会場ではこのパネルの上に日本の建築家たちが1960年代以降に提案した未来都市のスライド画像が次々と投影されたという。もう1つは、およそ10メートル四方の空間に格子状に設置された、地獄草子、餓鬼草子、地獄の業火の画像などが映し出された16枚の湾曲したパネルからなる、「電気的迷宮」と名付けられた装置である。この2つの展示を見て、磯崎の初期の論文「孵化過程」(1960)を知る者は、だれしもその中の「未来都市は廃墟そのものである」という一文を想起したに違いない。言うまでもなく、この時の経験もまた「インヴィジブル・モニュメント」に多々反映されることになった。
ところで、磯崎は論文「見えない都市」(1966)のなかで、報告書の中で提案した「サイバネティック・エンバイラメント」について詳しく論じているのだが、報告書の原型とも呼ぶべきこの論文の中で、万博についての言及は一切ない。磯崎にとって何より重要なのはいかにして「見えない都市」を実体化するかであって、おそらく万博はそのきっかけの一つに過ぎなかったのではないか。先に「『インヴィジブル・モニュメント』は『太陽の塔』に敗北した」と書いたが、当の磯崎にとっては勝ち負けなど二の次だったのかもしれない。
丹下健三は20世紀の日本において、「国民的建築家」と呼びうる唯一無二の存在であった。そのことは彼のキャリアを一瞥すれば一目瞭然だし、東京オリンピックと大阪万博という戦後復興を象徴する二つの国家行事に深く関与し、代表作を残していることもその事実を裏打ちしている。逆に言えばそのふたつを頂点として、以後のキャリアは緩やかな下り坂を描くことになった。丹下の建築家としての本質は、2005年の死去に際して、葬儀の席で弟子の磯崎が読み上げた「建築することとは、単に街や建物を設計することではない、人々が生きているその場のすべて、社会、都市、国家にいたるまでを構想し、それを眼に見えるように組みたてることだ。これが、私たちが教えて頂いた<建築>の本義であります」という弔辞に現れている。オリンピックと万国博覧会という国家行事の基幹施設の設計を委ねるのに、丹下以上にふさわしい建築家がいなかったことは間違いない。しかし、東京オリンピックと大阪万博以降、丹下の存命中に限っても、日本では複数回のオリンピックと万博が開催されているのだが、丹下は二度とそこに関与することはなかった。戦後復興という象徴性は一度きりのものであり、それが失われた以後のオリンピックと万博に丹下が関与する余地などなかったということだろう。冒頭の仮説に戻るなら、丹下にとって万博はあくまでも祝祭のための場だったのである。
一方の磯崎は、「都市破壊業KK」(1962)という不穏なタイトルの論文を執筆し、また「孵化過程」で「未来都市は廃墟そのものである」と断言するなど、若いころより一貫して廃墟への志向性を隠さなかった。それは後年の「つくばセンタービル」(1983)の竣工に際して発表された廃墟の図面や、事務局にあれこれと無理難題を吹っ掛け、半ば確信犯的に芸術監督の座を降りた2005年の横浜トリエンナーレの顛末などが物語っている。しかし、磯崎は、そうした彼の志向性を百も承知の丹下から大阪万博の会場演出を託され、また後年にも全く違った形で万博に深く関わることになった。
先に磯崎がミラノ・トリエンナーレに広島の焼け野原のパネルを出品したことを確認した。「ふたたび廃墟になったヒロシマ」と題されたこの作品は、それ自体ある種の退廃的な美しさを孕んでいるものの、万博という晴れがましい舞台にはおよそふさわしくないように思われる。しかし実際は違っていた。大阪万博から遡ること12年、1958年のブリュッセル万博で、前川國男設計の日本館パビリオンの一角には、原爆が投下され焼け野原となった広島の景観写真が展示されていたのである。記録によると、当初は原子力展示の構想があったのだが、当時の日本では外国産の原子炉が導入されたばかりで、国家パビリオンで紹介できるような国産の技術が何もなかったため、やむなく原爆の景観写真を展示したのだという。これと同様の発想は、実は1970年の大阪万博の時点でも存在した。大阪万博が開幕した1970年3月14日、それに合わせて敦賀原発が営業運転を開始したのは有名だが、日本館パビリオンでは、依然として国産の技術が展示できる水準に達していないとの判断から、原爆の被害をテーマに河野鷹思がデザインした2枚組のタピスリー「よろこびの塔」「かなしみの塔」が展示され、また銀屋根の中に設けられた空中テーマ館でも広島の廃墟の景観写真が展示されることになった。こうした事実を踏まえると、「ふたたび廃墟になったヒロシマ」を大阪万博に展示することに特に大きな不都合はなかったのではないか。
またプロデューサーを務めた1990年の国際花と緑の博覧会で、磯崎は国際展示水の館と国際陳列館というふたつのパビリオンを設計した。このふたつのパビリオンは30年以上たった今も現存しているが、会場である鶴見緑地の周辺はいまや廃墟同然となっており、磯崎は当時からこのような状況を見越していたのではないかと思わないでもない。
万博は半年間(もしくは3か月間)という期間限定の未来都市を出現させるイベントである。課題解決という新しい視点が導入された現在も、未来都市のスクラップ・アンド・ビルドが行われることに変わりはなく、であればこそ荒廃した未来都市=廃墟も必然的に出現する。廃墟を志向する磯崎との親和性が高いのもむべなるかなである。
こうして、大阪万博において邂逅した丹下健三と磯崎新は、それぞれの仕事を通じて全く異なる資質を発揮した。本発表を締めくくるにあたり、それを改めて祝祭と廃墟と呼ぶこととしたい。