万博で上演される地域芸能の
トランスナショナルな循環
——ポリネシアンショーの
自己/他者表象をめぐって
葛西 周
日本演劇学会|京都芸術大学
はじめに
本発表では、海域文化交流と疑似観光という文脈において、万博が地域芸能をスペクタクルへと変容させるメディアとしてどのように機能してきたのか、という問いを中心に置く。万博で特定の地域を代表する芸能において、「植民地主義的まなざし」はどのように形成されたか」、また地域芸能がいかに「展示可能な文化」として再構成されてきたのか、といった問題意識も付随する。これらの問いを検討するにあたって、本発表では、演劇学・音楽学・観光学・ポストコロニアル理論といった複数の視点を学際的に交差させることを試みる。
本発表では、地域芸能をスペクタクル化して発信・消費し、またある時にはその再解釈を促す場としての万博について考える。ハワイの事例を中心とするが、他のポリネシア地域の芸能が「ハワイ」という名のもとで披露されるケースがしばしばあるため、テーマは「ポリネシアンショー」と設定する。
地域芸能を上演する場としての万博
19世紀末から20世紀初頭にかけて、万博は植民地支配を正当化し、諸地域の文化を階層的に提示する装置として機能していた。非西洋の民族の展示がその最たる例であり、そこでは演者の能動性や文化的複雑性は抑圧されやすく、固定的なイメージが再生産されていた。こうしたステレオタイプは、展示される民族の身体やパフォーマンスを通して、視覚的・聴覚的に構築される。
万博における地域芸能は、そこでのパワーポリティクスに左右されつつ選択・構成されていた。観光学の視点から考えてみると、ジョン・アーリの「観光のまなざし」の理論では、観光客のまなざしが事前の知識や情報によって構造化されていて、まなざしを向ける側と向けられる側のあいだで権力の不均衡が生じやすいこと、そして、地域住民が観光客のまなざしに応える形で文化を演じてみせ、さらにそれが商品化されやすいことなどが指摘される(Urry 2011)。こうした視点は、万博の演出における演者/観客の関係を分析する上で示唆に富む。
特に重要なのは、万博と観光のフォーマットの重なりである。いずれも「異文化との出会い」を提供する空間であり、非日常性やエキゾチシズムを強調する点で類似している。観光ショーやレビュー形式のパフォーマンスは、短時間で多様な文化的要素を提示することを目的としており、万博におけるパフォーマンスも同様の演出方針に従っていた。結果として、地域芸能はしばしば断片化され、観客にとってわかりやすく、消費しやすい形で提供される傾向にあったと言える。
万博におけるポリネシアンショーの変遷
ここから検討する博覧会の事例は、地域芸能がどのように植民地主義的文脈の中で再構成され、同時にトランスナショナルな文化実践として波及していったのかを理解する一助となるものである。
ポリネシア地域外でのポリネシアンショーの歴史を辿ると、後述する1893年のシカゴ万博がその始まりとされることもあるが、実際には19世紀半ばにカリフォルニア、すなわちハワイ併合前のアメリカ本土で、ゴールドラッシュの際に炭鉱夫をターゲットとして、専ら男性観客のためにハワイのダンサーたちによるフラの興行が行われていた。その背景として、19世紀前半のハワイにおいてフラは、アメリカ本土からの宣教師によって規制すべき淫らなものと見なされていた(Desmond 1999)。フラが土着宗教と結びついていたことも問題視され、プロテスタントに改宗したカアフマヌ女王によって、1830年には公共の場でフラを踊ったり教えたりすることが禁じられ、密かに伝承されるものとなった。その時々の首長の方針によって、フラが保護されたり排斥されたりしたのが19世紀後半のハワイであった。そうした時期に催されたカリフォルニアでのフラ興行は、現存する資料からすると1860年代初頭のことと推察されるが、観客が期待するような官能的なダンスではなかったため、必ずしも成功したとは言えない。万博でのパフォーマンスに先立つ段階で、神聖な儀式としてフラを実践する女性パフォーマーと、官能的なアトラクションを期待するアメリカ本土の観客とのあいだに、すでに大きなギャップが生じていたことが読み取れる。
1)展示される「南洋の島民たち」
1893年のシカゴ万博は、ポリネシアのパフォーマーたちが不特定の一般観客に向けてアメリカ本土で公演を行った例として、最初期のものである。この万博で人気を集めたのが、ミッドウェイ・プレザンスと呼ばれる、約1.6キロメートルにわたるエリアであった。ホワイトシティと名付けられた主要パビリオンが集められたエリアが、西洋の技術的・文化的成果の展示に注力していたのに対し、ミッドウェイ・プレザンスは来場者にエンターテインメント体験を提供するための目玉として設計されていた。その要となったのは、さまざまな地域の民族による展示とパフォーマンスであり、ポリネシアもその一例であった。この背景として押さえておくべき当時の西洋の動向が二つある。
一つは、人類学的・民族学的見地から意義が主張され、19世紀後半以降ヨーロッパや北米で流行していた異民族展示である。非西洋地域から「未開」と見なされる人々が連れてこられ、彼らの生活環境を模した空間で暮らす様子を見世物にする展示であり、しばしば「人間動物園」と呼ばれ、多くの場合、地域芸能のパフォーマンスを伴っていた。こうした異民族展示は西洋だけでなく日本にも導入され、1903年に天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会では、「学術人類館」という同様のパビリオンが設置され、物議を醸した(葛西2008)。これらの異民族展示は学術的・教育的目的を掲げていたが、実際には植民地主義と西洋文化中心主義に深く根ざしたものであった。非西洋の人々が野蛮さや幼さを強調される形で展示される例が多く見られ、植民地主義のイデオロギーを強化する役割を果たした。
もう一つは、民族村である。民族村も人類展示と同時期に広まった、特定の地域や国の生活と文化を展示する場であり、西洋都市部に設置される傾向があった。代表的な例として、1885年にロンドンのナイツブリッジに設けられ、2年強存続した日本村が挙げられる。日本村では、日本家屋や商店、庭園が再現され、日本の職人や芸人が日本文化を紹介した。こうした民族村は非西洋文化を異国趣味の対象としたが、展示される側がより主体的に展示に関与するケースも多く、文化外交や商機と捉えられることもあった。
この二つが混ざり合ったのが、ミッドウェイ・プレザンスである。当初は研究者主導のもとで、より学術的な展示が検討されていたが、採算の都合などから娯楽に舵を切った経緯がある。ここでは当時の植民地主義的な非西洋諸地域への態度を反映した形で異文化が紹介された。そのなかに「南洋の島民たち」というエリアがあり、ハワイ、サモア、フィジー、その他ポリネシア地域が参加していた。各民族のエリアは、ホワイトシティの近くから文明度が高いと見なされた順に配置されており、南洋の島民たちは中ほどに位置づけられていた。これは、原始的魅力を持ちながらも文明化が可能であると主催側が判断していたことを示唆している。
ハワイからダンサーとして出演したキニ・カパフという、ジェニーという愛称でも知られる人物は、フラ禁止令を解いたカラカウア王の在任中に宮廷ダンサーを務めていた。カラカウア王による復興期のフラは、フラ・クイと呼ばれる、西洋の音楽や舞踊の影響を受けた新しいフラであり、ギターやウクレレといった、この19世紀に新たにハワイに根付いた楽器が用いられた。万博では伝統的なフラだけでなく、西洋化されたフラ・クイも上演されていたことが窺える。彼女たち出演者は6名のグループであり、万博後もアメリカ各地やヨーロッパを巡業している。
ジャーナリストのウォルター・ウェルマンは、次のような訪問記を残している。
その[ダホメ村の]近くには南洋の島民の村がある……彼らの踊りはアフリカ人たちのものとよく似ている。しかし、女性たちはアマゾン先住民よりも優れている。南洋の島民には、三人のフラガールがいて、まずまず魅力的だ。海草でできた短いスカートを穿き、ガラス片や他の粗末な装飾品で飾っており、暗い髪に草や花を編み込んでいる。優雅な踊りを身につけていて、好戦的ではない(Bismarck Weekly Tribune、1893年6月30日、6頁/発表者訳)
このような記述から、来場者もミッドウェイ・プレザンス内で展示されている諸民族の優劣や類似性を比較評価するような視点を持っていることが見て取れる。ダホメ村についてはより具体的にパフォーマンスに関する記述があるが、それも着ている服の少なさへの驚きや、楽器の音への不快感といった内容で、パフォーマンスを芸術として認識・評価するような態度は確認できない。
ここでのパフォーマンスは、展示会場の趣旨から娯楽として提供され、とりわけ女性ダンサーは性的魅力に溢れ自由奔放というステレオタイプに当てはめられた。実際、キニ・カパフは、万博のパフォーマンスの際に次のような呼び込みをさせられたと、1962年の人類学者ジョアン・キーリノホモクによるインタビューで振り返っている(Desmond 1999:62-63; Imada 2012:71/以下発表者訳)。
ミッドウェイ、ミッドウェイ、ミッドウェイ・プレザンス
ホノルルから来たいけない娘たちが いけないフラを踊る場所
奥さん連れの殿方が 物欲しそうにちらっと見てるよ
ミッドウェイ・プレザンスでの いけない、いけない行いを
このように、ショーの出演者に期待されていたのは「扇情的な未開の民族」の姿を見せることで、ゆえに観客からは上半身裸での踊りが求められ、彼女たちに触れようとする観客までいたとキニ・カパフは回想している。アメリカ史を専門とするアドリア・L・イマダは、ハワイの女性がアメリカ本土に進出する術がフラであり、万博はそのような機会のひとつであったこと、フラを正当な実践として主張しようとしていたことについても指摘しているが(Imada 2012)、本土の観客の性的消費への欲求は強く、文明化されていない「他者」の文化としてのまなざしを避けがたい状況だったと言えよう。
2)「見世物」と「文化」の分岐
1915年のサンフランシスコ万博、通称パナマ太平洋万博でも、「南洋村」という展示が行われている。シカゴ万博の5年後、1898年にハワイはアメリカに併合され、フィリピンはアメリカの植民地となっており、太平洋諸島の文化表象はアメリカの地政学的拡張の証左として万博にあらわれていた。一方でハワイ側からは、観光プロモーションの好機と考えられていたため、ハワイ館が建てられ、フラやハワイアン音楽が披露された。博覧会でヒット曲 “On the Beach at Waikiki” を作曲したヘンリー・カイリマイ率いるハワイアン・クインテットはその一例である。また、ハワイのブランド「クマラエ」のウクレレが金賞を獲得しており、南洋村のような西洋にとってのエキゾチックな見世物と、ハワイ館のような西洋から評価される文化に分岐してきたことがわかる。
1700万人もの来場者が訪れたことで、この万博はフラやハワイアン音楽の一大ブームを巻き起こし、次第にブロードウェイの劇場にも小規模なテントショーにも、白人女性のフラ未経験者によるフラガールが急増していく。このことは結果的に、ハワイ側が企図していた観光促進にも寄与するが、アメリカ白人娯楽文化に組み込まれたことによって文化の真正性への意識は希薄になり、セロファンのスカートとココナッツブラのフラガールという、いわば「観光フラ」の構築につながっていった。露出度の高さを理由の一つとしてアメリカ本土の宣教師に一時は禁止に追い込まれたフラは、そのアメリカ本土において、露出度の高い衣装を典型とする官能的なダンスとして、ブロードウェイの舞台やハリウッド映画などのメディアをつうじてイメージが形成されていったのである。
3)日本における「南洋」イメージの醸成
万博ではないが、同時期の日本における博覧会での一事例として、1914年の東京大正博覧会における南洋館にも触れておく。
南洋館では、マレー半島、スマトラ、ハワイ、ボルネオ、ニューギニア、セレベス、フィリピンといった諸地域のモノやパフォーマンスが、西洋式の異民族展示にならって再現された。日本もまた、展示を通じて帝国としての正当性を主張しようとしていたことがわかる。ここでは舞踊も披露され、記録されている限り日本で最初期のポリネシアンショーの事例と考えられるが、「南洋土人の踊り」と総称され、博覧会要覧には「踊るのは布哇の五人、スマトラの男女七人など。ヒルマ芸人の踊りは幾らか蛮気の少い方だ」と記されており、西洋の万博と同様に未開の民族の「原始芸術」として消費されていたことが窺える。ここからは、アメリカと日本という二つの帝国が、ポリネシア文化の展示をつうじて植民地支配とそれによる文明化推進の正当化を図っていたことが読み取れる。
戦前のアメリカ合衆国本土において、ハワイ文化はプリミティヴで官能的な肉体の躍動と捉えられ、ハリウッド映画でもその点が強調して描かれたため、日本でも輸入映画をつうじてそうしたイメージが普及した。他方で音楽面では、パナマ太平洋万博でのハワイアンブーム以降、1920年代ごろから西洋の万博に出演し巡業したハワイのミュージシャンが、ツアーの途中で来日するようになる。徐々に日系二世ミュージシャンも日本で活躍し始め、ハワイアン音楽はダンスホールや大学のクラブで演奏されるようになる。しかし、ダンスホールで踊られるのはフラではなく、いわゆる社交ダンスであり、日本では音楽が趣味空間に広まったのに対して、ダンスはハリウッド映画のイメージに留まりがちであったと言える。
戦後は60年代初頭からプレスリーのハワイ映画が続けてヒットし、同時期に日本でも若大将シリーズや喜劇駅前シリーズなど、ハワイロケを売りにした映画が次々と公開され、映画をつうじてヴァーチャルなハワイ旅行が体験され、日本でもハワイブームの気運が高まりを見せる。日本では、常磐ハワイアンセンター、現在のスパリゾートハワイアンズができた1966年頃には、依然としてフラは「裸踊り」「ヘソ出し踊り」といった認識が、特に地方では根強く見られていた。60年代は移行期であり、「裸踊りのように思われているが真のハワイアンはそうではない」といった真正性をめぐる言説や、観光化されたパフォーマンスに対する批判が散見されるようになる。そのような時期に開催されたのが、1970年の大阪万博である。
4)ステレオタイプ的表象からの脱却
1970年の大阪万博において、アメリカ合衆国の州を代表する国際展示の一つとしてハワイ州館が存在した。以前の異民族展示がポリネシア文化を未開の地の「他者」の文化として提示していたのに対し、ハワイ州館は主にハワイをアメリカ合衆国内の観光地として宣伝することに照準を合わせていた。館内にはステージが設けられ、フラを含む多様な民族舞踊やハワイアン音楽などのパフォーマンスが連日披露され、ハワイアン・レビュー月間も設けられている。
ここでの定期的なパフォーマーは、パビリオンのホステスであった。ホステスのトレーニングに際しては、フラは「ハウオリ・フラ・スタジオ」の創設者でウクレレ・ギター奏者でもあるポーリーン・ケカフナが指導を行い、ウクレレやハワイアン歌唱にもそれぞれ専門の指導者がついていた。
万博での演者たちは、観客の期待をずらす戦略を取ることもあった。たとえば大阪万博では、セロファンのスカートとココナッツブラのような衣装ではなく、宣教師が導入した露出度の少ないムームーやパンツスタイルを採り入れ、これまで「異文化」として展示される際のステレオタイプからの逸脱が観察された。さらに、「本場」のスタッフだけでなく、日本人のホステスや観客も加わっている点も特徴である。お祭り広場での地域芸能なども含め、大阪万博に一貫する参加型・協働型のパフォーマンスからは、不均衡な力関係の中で観客の要求を満たそうとする近代の万博からの転換を見て取ることができる。
結論
以上の事例を通して改めて確認したいのは、万博が、地域芸能を単に紹介するのではなく、観客の文化的欲望や国家戦略に呼応して「演出」する場であったという点である。例としたポリネシアンショーは、植民地主義的まなざしの中で形成されたステレオタイプを引き受けつつも、ときにその枠を越えて主体的な表現の場を獲得してきた。
近代の万博は、疑似観光のまなざしと植民地主義的秩序が交錯する場であり、地域芸能をスペクタクル化する装置として機能してきた。ポリネシアンショーの事例は、万博が地域文化を脱文脈化し、「展示」へと変容させるプロセスを如実に示している。
帝国日本は、南洋諸地域の文化を「他者化」することで、自国の文化的・政治的優位性を演出してきた。他方で、南洋幻想や移民の歴史といった固有の文脈が、ポリネシアの芸能と日本の観客との関係性にレイヤーを与え、万博における文化表象を西洋中心主義的な枠組みに収まりきらないものにしていると言える。
演者による戦略的表象や、複数地域の演者間・演者と観客間の文化交渉は、ステレオタイプの受動的な再現を脱して、現代のメディア・イベントにおける地域芸能の脱植民地主義化の可能性をも内包している。今後は、こうした異文化表象の歴史をどのように批判的に継承し、地域芸能を脱植民地主義的に再構築していくのかが問われる。
主要参考文献
Denning, Michael. 2015. Noise Uprising: The Audiopolitics of a World Musical Revolution. Verso Books. Desmond, Jane C. 1999. Staging Tourism: Bodies on Display from Waikiki to Sea World. The University of Chicago Press. Hosokawa, Shuhei, 1994, East of Honolulu: Hawaiian Music in Japan from the 1920s to the 1940s. Perfect Beat, Vol.2, No.1.
Imada, Adria L. 2012. Aloha America: Hula Circuits through the U.S. Empire. Duke University Press. Urry, John. 2011. The Tourist Gaze. 3rd ed. SAGE.
葛西周 2008. 「博覧会の舞踊にみる近代日本の植民地主義——琉球・台湾に焦点をあてて」『東洋音楽研究』73号、21〜41頁。 東京大正博覧会案内編集局編 1914.『東京大正博覧会観覧案内』文洋社。
日本万国博覧会記念協会 1972.『日本万国博覧会公式記録1〜3』、電通。